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カタカナ語と僕。

皆さんこんにちは。
日本ハンドボールリーグ(以下JHL)に所属するトヨタ紡織九州レッドトルネードのマスコット、「レットルくん@rettorkun」です。
以後お見知り置きを。


あれだけ「暑い暑い」と文句を言っていたのにも関わらず、夏の終わりはどこか寂しい。何故か、「今日だけ夏に戻ってほしい」と思う時がある。

ともあれ。
高い空が美しく、山が化粧を始めたこの季節は何をするにも良い時期だ。


―そう、良い時期なのだ。
であるにも関わらず、僕は先ほどかかってきた電話に感情を揺さぶられている。


電話の相手は悪い人ではないが、彼は【カタカナ語】をよく使う。そして僕は、しばらく前から巷に渦巻く【カタカナ語】に感情を揺さぶられ続けている。


よくわからないカタカナ語を連発する人と会話をしていると、結局なんとなくでしか内容を把握できず、「あれ?これは僕が悪いのか?」と引け目すら感じる時がある。

僕は、何も「カタカナ語を使うことの是非」を問いたいわけではない。
カタカナ語を使う人は今後も増えていくだろうし、諦めてこちらが勉強すれば済むのだが、それをやろうという気が全く起きない。

話す、書く、といった行動の目的はコミュケーション以外に他ならない。だとすれば、そういった行為にわざわざ謎のカタカナ語をブチ込むという必要性が、僕には分からないのだ。


「エビデンス」って何だ。
「コンセンサス」って何なんだよ。
「アグリーです」じゃなくて、「良いっすね」と言ってくれ。


だがもしも、カタカタ語を取り入れたがる気持ちの底に、何らかのコンプレックスや「人の目が気になる」という気持ちが潜んでいるとすれば、話は全く変わってくる。
僕は自他共に認める「いい加減な人間」で、カタカナ語を多用する「意識高い系」とは真逆の人間だが、僕だって人の目は気になる。

どうせなら頭が良いと思われたいのだ。
こんな僕でも。


賢いと思われるような身振り手振り。
優しいと思われるような立ち振る舞い。
面白いと思われるような話し方。
素敵と思われるような言い回し。


悲しいかな、大人になるにつれ、それらの技術は自然と身に付いていく。小学生の頃のように、「足が速い」では誰も一目置いてくれないから。
必死なのだ。大人はみんな。僕も含めて。

いつの間にかこびり付いた「心のぜい肉」は簡単には落ちてくれない。
そういう意味では、僕も随分と太ってしまった。


カタカナ語に心を揺さぶられ、心のぜい肉をつまんでため息を吐く。


僕の心と秋の空。
秋は心が忙しい。


やっぱり僕は、夏が良い。

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