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大丈夫ですか?

こんにちは。日本ハンドボールリーグ(以下JHL)に所属するトヨタ紡織九州レッドトルネードのマスコット、「レットルくん」です。
(Twitter→@rettorkun)


普段文字を使うことで存在している僕が言うと元も子もないかも知れないが、「言葉」というものはかなりきわどい。
特に「大丈夫」という言葉は。

「この子の成績は大丈夫でしょうか?」
「その投資案件は大丈夫なのか?」
「そんなに飲んで大丈夫か?」

と、僕らは毎日互いに何かを問いあっている。
質問は様々ながら、問われた側は、一様に太鼓判を押す。


「えぇ、大丈夫ですとも」と。


仮にこれを「その投資案件は本当に安全かね?」と聞いたならば、恐らく多くの人が「投資が安全ということはありませんよ」と答えるだろう。

「大丈夫」という言葉は、時に曖昧で、安全であったりそうでなかったり、ハッタリにも勢いにもなり、話し手によって自由自在に形を変える。
ただでさえ不安定な言葉であるにも関わらず、そこに「多分」が加わって、「多分大丈夫だと思います」なんて言われた日には、ドキドキして夜も眠れない。

「大丈夫」というのは、何とも便利で、何ともヘンテコなのだ。
そして、「大丈夫」だけじゃない。


二度あることは三度あると言われても、三度目の正直だと言わせてほしい。
棚から牡丹餅なんて本当にあるのか、蒔かぬ種は生えないんじゃないのか。
君子は危うきに近寄らないのかも知れないが、虎穴に入らなければ虎子を得られないという話を聞いたことがある。
噓つきは泥棒の始まりなのか、はたまた嘘も方便なのか―。


きわどい言葉はたくさんあって、挙げだしたらキリがない。

つまるところ僕たちは、その都度その都度自分にとって都合の良い言葉を選ぶ習性があって、何か起こればそれを自身にとって都合よく解釈し、自身にとって都合の良い言葉で装飾しながら生きていると言っても過言ではないのだ。


僕のツイートに「いいね」が付くのは嬉しいけれど、過大評価をされた時にはドキッとすることがある。
「僕はそこまで深く考えていないのに」と。

「人を疑え」というつもりは全くないが、しっかりと自分の基準を持って言葉や物事と向き合うことが大切だと心の底から思うのだ。
この仕事をやっていて、それがいかに大切かを日々痛感している。


老若男女問わず皆がスマホを手にし、大量の「言葉」に触れるこの時代。
人と人とが繋がって生きていくこの世の中で、誰かが発する「言葉」に隠された真の価値を見出してこそ、理想的な関係が生まれるのだと思う。


無力な僕には、こうして誰が読んでくれているのかも分からないコラムの中で注意喚起することぐらいしかできないが、これはもう、本当に祈りに近い。言葉で皆さんと繋がっている僕は、皆さんに対して、何事もまずは自分なりに咀嚼して、自分なりに解釈することを心掛けてほしいのだ。

皆さん、できますか。
大丈夫でしょうか。


僕ですか?
僕は大丈夫です。

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