知らぬはホットケーキ。
「夏は頭上から暑いのに、冬は足元から寒いよね」
高校生だった彼女が、座ったまま唐突に口にした。あの頃、僕らはまだ高校生だった。もう高校生だったのかもしれないし、ちょうど高校生だったのかもしれない。
彼女と会う場所はいつも、彼女の家の下の公園だった。公園といっても、短いベンチとイチョウの木が何本かあるだけのがらんとした広場で、地域の余り物のような場所だった。僕の家から彼女の家が近いわけでもなく、いつも電車で十五分かけて彼女の家の下まで足を運ぶ。今思えば、彼女と彼女の家の下以外で会ったことのほうが少ない。
「冬ってどうして寒いか知ってる?」僕は前を向いたまま質問する。
「なんでだろ。夏より太陽が遠いから?」
「冬はむしろ、夏より太陽が近いんだ。正確には近いというか、低い」
「近いし低いのに、寒いの?」
「夏より太陽が近いってことは」僕は手頃な枝を拾い、地面に太陽の放物線を描く。外側が夏、内側が冬。「放物線が低いんだよ。だから、太陽が出ている時間も短くなる」
「二重にかかった虹みたいだね」彼女は聞いているのか分からない相槌を打っている。
「太陽が出ている時間が短いから、そのぶん空気が暖められないんだ」
足元に描いた放物線を二度三度引っ掻いて、空を見上げる。太陽はなく、真っ暗だった。星はいくつか見えるけれど、特段綺麗なわけでもない。「だから、冬は寒い」
「相変わらず、物知りだねぇ」
「今の時代、物知りにたいして意味はないよ。スマホがあるんだから」冷えたスマホを上着のポケットから取り出し、左にスワイプする。一月六日、晴れ、最高気温五度と表示されているのが見えた。
「それにしても、寒い」
「温度が分かるって不思議だよね。私たちは温度を感じて分かってるんじゃなくて、温度という数字を見て分かってる」彼女は手袋の上から息を吐き、かじかんだ手を暖めている。
「温度が何度だから寒いとか、三十度超えたら暑いとか、そんなんじゃないと思うんだ。暑いときは暑いし、寒いときは寒い。いくら寒くても、いけそうな日はいけるし」
「今日はいけそうな日だったんだ」
「うん。でも今日は、寒い」
マンションから出てきたゴールデンレトリバーと飼い主が、僕らの前を横切った。心なしか、犬が寒そうに見える。あの犬は散歩をしたかったのか、それとも散歩に連れ出されたのだろうか。なにもこんな寒い日に散歩なんかしなくても、と言いたげな顔をしていた。
「人間はさ、なんでも見えるようにしてきたんだよね」彼女は空を見上げながら口にする。
そうかもしれない、と僕も再び空を見上げて思う。ただの白い点でしかないこの星の表面も、僕たちは見ることができる。人の身体の中も、行ったことのない遠くの国の街並みも、今流行りのウイルスだって見えるようになった。人間の進歩は、見えないものを見えるようにしたことだと言ってもいいかもしれない。
「見えないことは、怖いことなのかも」
「幽霊の正体見たり、ナントカカントカみたいな?」
枯れ尾花、と僕はすかさず付け加える。「枯れ尾花も、見えなかったら怖いものなんだ」
「でもさ、その逆もあると思うんだよね。見えるが故に、怖いようなこと」
「例えば?」
「流れ星の正体が見えるくらい近かったら、怖いと思わない?」
「それはまあ、そうだけど」
「なんでもかんでも見えるのは、怖いよ。だって見られるのは怖いんだから」
僕は頷きながら、ポケットに突っ込んだ手でスマホの感触を確かめる。インターネットを通して、僕たちはあらゆることが見えるようになった。誰でも何でも見ることができる、それはつまり見られる側をも増やしたことでもある。見えるようになった副作用で、見られる怖さが増えたと言ってもいい。
「見えないままのほうが、いいものもある」独り言のようにつぶやいた。「それでも、人間はなんでもかんでも見えるようにしたいんだろうな」
「うん。だから、いくら見えてもたかが知れてるんだよ。見えたからって、答えが分かるわけでもないし。明日死ぬって分かっても、どうしたらいいかは分かんないでしょ?」
「ネットで検索しているうちに、明日が終わってるかもしれない」
「いくら見えたって、ほとんどのことは分からないままだよ。グーグルアースで道端に財布があっても、落し物なのか忘れ物なのかは、分かんない」
「その例え、あってる?」
「それも分かんない」彼女の顔は見えないけれど、たぶん笑っていた。
「だからね、見えないことも、知らないこともたくさんあるまま、諦めたまま生きていくのがいいんだよ。昔の偉い人も言ってたでしょ、知らぬはほっとけ、だよ」
「それはさすがに、寝ている釈迦も怒るんじゃないか」
「じゃあ、知らぬはホットケーキ」彼女は寒がりながら、あたたかな食べ物の名前を口にした。
散歩に出た犬と飼い主が、再び僕らの前を横切った。あまりの寒さに、早めに散歩を切り上げたのだろうか。ひとりと一匹が生きていることを証明するように、口から白い息が零れている。