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ぽてんしゃるというまだ見えない価値

*「価値」というものに比重を置きすぎると、たまに見えなくなってしまうものがある。価値というのはつまり、どれぐらい役に立つか、私にとってのメリットというふうに言い換えられるのかな。で、この「価値」ってやつが一番多く語られる場面は「交換」するときなんですよね。お金とそのものを交換したり、物と物であったりと、つまりその「価値の持っているもの」を手に入れようとする瞬間にこそ、一番語られるわけです。

「モノの価値」「話の価値」「時間の価値」「成果の価値」…価値の前にはさまざまな名詞が枕につくことで、そのものの「価値」が語られる。価値がなければ交換するに値しないとも言えるわけだ。他人からどれだけ無駄に見えようが、本人がそこに価値を感じているならば、交換の対象になるわけです。

ただね、本来、僕たちが何かを交換する上で手にいれるものって、「今わかっている価値」だけじゃないですよね。そのモノなり商品なり時間なりを交換したずっと後に分かる「価値」だって、本当はあるはずなんです。この例えは、「思い出」とか「時間」とかが分かりやすいかもしれない。あの頃はなーんにも気付かなかったり無駄だと思っていたけれど、今振り返って見ればよかったなぁと思うことって、意外にたくさんあるでしょう?

「ジーンズ」なんて、まさにそうだよね。まっさらなものを卸して、自分なりに擦ったり使い込んだりして、風合いが出てくる。それは、交換したときにはまだ「生まれていない価値」なんです。でも、ジーンズを買うって、その「まだ生まれていない価値」まで含めて、買っているようなものじゃないですか。

そういう意味では、「現在見える・分かる価値」だけで何かをやりとりしようとしてしまうことは、ちょっとさみしいことにも思える。もちろん「現在で分かる価値」がないと、人はそれを欲しいとは思わないから、大切ではあるんだけれど、もっとずっと後の方に分かる価値みたいなものも、過大評価せずきちんと伝えることができたらおもしろいだろうなぁ。そこを信じてものづくりをしていくことは、これからの時代に当てはまっていきそうだ。ま、一歩まちがえると「未来で役に立つかもしれませんよ?」って脅しに近いものにもなっちゃうんだけど。

交換時点では見えていない、ずっと後の「価値」について、本気で考えて、本気で伝える。いや、ものづくりの時点からそれはもう始まっているのかもしれない。そういう「交換」ができたら、視点が持てたら、もっともっとできることが耕されそうな気がしているんです。おっと、この話も、もっと後で価値が出てくるようなものだったかな?

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