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休学して得た気づき

私の休学中の一日

毎週日曜日は、私がアルバイト先として勤めている鰻屋のシフトが入っている。そこは若者たちがふらっと飲みやごはんの為に入る場所というよりかは、物珍しさに鰻に挑戦しようとする訪日観光客や、顔合わせや法事といった用途で使われることが多い。
時にはテレビで店を丸ごと貸切りたいなんて要望が来たり、国家のエグゼクティブとそのSPが来て鰻に舌鼓を打つこともある。

また、訪日観光客の方は韓国や英語圏の方が多いので、最近は韓国語の接客にも力を入れている。流暢にフレーズが出てくるまで覚えて、さらっと「こちらのお席にお座りください」とか「楽しんでお召し上がりください」とか言ってみると、それまで日本語で必要な情報を伝えようと強張っていた顔が、たちまち赤ちゃんのような笑顔に変わる。

「カムサハムニダ~!!」

本場のカムサハムニダを頂戴した私はYou made my day!!と言いたくなったが、そんなニュアンスを持つ表現は日本語でも韓国語でも翻訳しがたい。英語独自の表現のような気がして、ただただ「どういたしまして!」と、またも韓国語で言ってみる。

「日本語を話せる韓国人は多いのに、もてなす側である私が韓国語を話さないのは申し訳ない!」

そんな感情が私の言語学習をいつも扇動している気がする。

そういえば、こんなこと前もあった。
中学生の時、学校の帰りに「〇〇はどこですか?」と英語で観光客に尋ねられ、NEW HORIZONで道案内について学んだばかりの私は何も言えなかった。話しかけられてしまった以上、私がなんとかしなければ!と思い、

結果的に彼らの目的地まで案内した。
「私が英語を話せたら相手を困らせることなくスムーズに案内できたのに、申し訳ない・・・。」

きっと私の学びのモチベーションは人を介した経験から来る内発的なものなんだろう。


休学して得た気づき

そんな鰻屋で、私は主に日曜のランチタイムの時間に働く。
11時から15時まで働いたあと、アルバイトのメンバーで賄いを食べてから家に帰ると冬場はもう陽がしずみ、一日が終わりかけていることを実感する。
そんな時、私は本当に安心していることに最近気づいた。

大学生になることに成功した人たちがシャキシャキと消費する昼間の空気に触れなくて済んだことに、毎日、ほっと安心する。

『もういちど生まれる』著:朝井リョウ

パニック障害が最もひどかったときは、外に出てパニック発作が起こるのではないかという予期不安で外出することを躊躇っていた。しかし今はもう普通に外に出れるようになり、生活している多くの場面で自分が休学しているのだと感じる要素があることに気づいた。

友達の就活の悩みや愚痴についていけないなんてものは序の口で、
アルバイト先の子にも休学していることは隠しているから最近は「期末テストとかレポート終わりました~?」なんて聞かれて一丁前に「終わりましたよー!大変でした!」なんて嘘をついてその場をしのいでしまった。

平日の昼間、私はよく近所の散策をする。これが、驚くほど閑散としているのだ。労働人口の殆どが都心部に集まり、学生は学校に滞在しているとなると、ショッピングモールや公園は子ども連れのお母さんやご高齢の方しかいない。
ある日いつも通り近所を散歩していると、水辺が美しい公園を見つけた。
時間がゆっくり流れている気がして、思わず私もそこへ行ってみて、行き交う人々を観察してみた。




草むらの上に大の字に寝転んで日光浴をしているおじいちゃん、杖をつきながら一歩一歩着実に前に進んでいる老夫婦、柴犬と赤ちゃんのベビーカーの二刀流散歩をしているお母さん。
ランニングをしているお兄さんに、ベンチでのんびりおにぎりを食べるおばさん。




これらは休学していなかったら気づくことのできないものだった。


休学する前、留学する前の大学1,2年生の時は、膨大な課題や日々のやるべきことに頭の中で優先順位をつけながら、行き交う人の隙間を器用にすり抜け、いつも駅のホームへと早歩きしていた。

当時大好きだったサブカルを通学中は常に聴き流していたし、SNSでの友達とのやり取りにも抜かりがなかった。

当時はインスタのストーリーのいいねを押してもらうことに躍起になっていたのか、いつもオシャレなカフェや大学の友達との交流風景を載せて、自分の充実ぶりをいかにフォロワーという承認欲求を満たすための道具へアピールできるか、を考えていた。
また、大学の友達との話題作りの為にも、彼らのストーリーに対していいねや反応をして常に誰が何をしているか、を気にかけていた。 

毎朝洗面台で髪の毛をオイルでセットし、香水を身にまとい、アクセサリーもしっかり選んで大学に行く。
教室につけば、「今日の服めっちゃいい!」なんて褒めてくれる友達が沢山いて、一日中有頂天になっていた。

そして、授業が終わり電車に乗ると、そこには見渡す限り一面の広告で溢れている。
そんなことに当時は疑問も持たなかった。
中学受験塾、英会話、筋トレ、転職サイト、投資のハウツー、ベストセラーの自己啓発本。
直接言われてはいないけど、「止まることを許されていない」「社会的に価値のある人間になるためには常に上昇志向を持ちなさい」的な風潮が東京という資本主義社会の象徴である都市には漂っている

と今になって気づいた。

私は、大学2年生までの20年間、社会的に促進されている行動や数字といった表面的なものばかりに囚われ、目を奪われながら、自分の心と対話せずに生きていた気がする。

勿論何かを成し遂げること、目標に向かって地道な努力をすることが間違っている、ウェルビーイングに反すると言っているわけではない。

ただ、日々の通勤通学の中、受け身の姿勢で電車のつり革広告やSNSを見漁り、「子どもにはこれをやらせなきゃ」「転職活動はこれに登録すれば大手にいけるんだな」と思考を巡らせるよりも、

もっと広い視野で、そして狭い世界で自分のやりたいことにフォーカスしてもいいのではないか、と思ってしまう自分がいる。

私が鰻屋で接客のときに「韓国語を使っておもてなししてみたい」と一念発起し、本屋さんに行って韓国語学習の本を購入し、学び、
アルバイトで実行に移したということ。

これは大学2年生までの「合理的に成功者になる生き方」だけにフォーカスしていた自分ならまずしなかっただろう。

他人の、社会全般の物差しで測られる「すごい」「かわいい」とかという賞賛を浴びるためだけに生きていた大学2年生までの自分
そんな自分ならきっと問答無用で自分の内から咲いた韓国語への好奇心という花を「就活に有利なものじゃない」と見なして踏んづけていただろう。

だから休学中に見つけた近所の散歩ルートで、東京のJRの電車広告から一番離れているであろう人たちが今を生きている姿から得るものが確かにあった。

もっと視野を広く持って、自分のやりたいと思ったその気持ちを大切にしながら狭い自分の生きている世界の人間だけでも幸せにできたら、そんなに嬉しいことはないな、と思う。




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