東大vs医学部論争について真剣に考えてみた。 | コラム②
みなさまこんにちは、Dr.アジュールと申します。
私は再受験や医学部への受験に関する情報を発信したいと思っているのですが、こんな記事を見かけたので、また趣旨を変えてコラム風に。
これからの時代悩ましいですね。勉強ができる人にとって考えることは、東大か医学部か。
※ちなみに私もこれからの時代は、海外大への進学がいいなと思います。笑
西大和学園出身の友人がいましたが、当時は東大や京大に行くことを求められていたような気がしましたが時代とともに変わっていく校風は素晴らしいですね。
東大vs医学部論争はそろそろ終わりにしないか。
まず最初に、東大vs医学部論争になぜ興味関心が沸くのだろう?
それは『日本という国は、受験競争の大国である。』という前提の条件があるからなのだと私は思う。
答えが存在するテストがある故に、成績や優劣という指標が生まれる。そしてその最難関に存在しているのが、東大や医学部なのは事実である。
一方、教育システムの全く異なるアメリカには塾という概念がないらしい。誰も行かないからだそうだ。
アメリカの大学入試なんて共通一次/センター試験よりも断然簡単なのだが、それでもこの世界はアメリカによって牽引されているのは事実である。
日本の、答えのあるテストなんか本当に必要なのか?
社会に出てしまえば本来答えなどないのだ。というのがアメリカの考え方なのだろうか。
アメリカでは勉学だけで、MITやハーバード、医学部へ行けるわけではないのだ。
中国や韓国、日本をはじめとするアジア諸国は、10代という青春の数年間を勉強に費やし、そこには塾産業というビジネスが存在し、合格者数という数字を成合にしている。
成績や点数という一つの指標があるが故に起こる、
これが日本の受験の現状である。
そんな受験競争にとって、東大理三や京都医 を目指す神々のような存在が頂点に君臨しており
同じレールを走る人にとって、東大や医学部への合格はゴールともいえるのかもしれない。
そんな競争の中、優劣の『優』こと誇示したいのが 東大vs医学部 という論争。
東大のほうが難しいと言いたげな東大生
難関大医学部入ったけど、‘東大目指せばも入れた‘けどなと言いたげな医学部生
正直言ってどっちも難しいし、違う進路なんだからそれでいいんじゃないか。
簡単な努力は入れないということだけ自明の事実なのだから。
この論争に執着してはいけない。
そして、人間に多角形のパラメータがあるとすれば、『学歴』とは、たった一つのパラメータにしかならないと大人になって気付く。
気づかないふりをしている受験業界の関係者や、過去の栄光にすがる大人が、いつまで経ってもこんな東大vs医学部をするのだろうか。
この論争にももちろん答えなどはない。そもそも人生において試験やテスト以外に答えがないことの方が多いだろう。
ただこんな答えを期待しているわけではないだろうから、卒業してからの生活を観点にもう少し深く掘り下げてみよう。
学歴というパラメータを何に変えるかが大切。
大事なのは、この『学歴』というパラメータを何に変化させるかである。
医学部という学歴は、卒業し国家試験に合格すると同時に自動的に、『医師』というパラメータに変化してくれる。
一方で、東大という学歴は、残念ながら東大卒という単体では、何かを見出せるかというと、‘否‘ である。
東大生にとって
大学生という社会から守られた枠組みから逸脱すると、次に待ち構えているのは、‘就職活動という競争‘ である。また競争なのである。
そこには、東大合格を競争のゴールとするならば、リタイアした大学生も大勢参加する、いわゆる敗者復活戦。
さらに言えば、そもそもこの東大競争に参加せず、要領よく生きてきた有名私立大学の学生の方が、社会への順応能力が高い可能性も十分にあり得るのだ。
この戦いにおいて、もちろん『東大卒』という肩書は有利に働くことは多いのだろうが、東大の入学者数は約3000人。京大の入学者を含めると6000人以上。
プラチナチケットと呼ぶには、あまりにも大量に印刷され過ぎている。
ここで、学歴というのは多角形のパラメータの一つでしかないことにそこで気づくこと、それが大切だ。
就職活動や社会に出た瞬間から、受験の世界にはなかった優劣や是非ではない、答えのない世界に突入する。
今の東大卒の就職競争にとって、高年収、有名企業への就職が東大卒のパラメータを最大限に変化させるための手段なのかもしれない。
この競争に勝つのは、『東大出身』+α の別のステータスである。(学生起業してましたとか、大学体育会のキャプテンでしたとか、海外へ留学してましたとかとか。)
終身雇用制度という概念が終わりゆく日本社会の中で、まだまだ東大生の競争は続くだろう。
そして転職や退職をすると、パラメータは儚くも過去のものになってしまう場合さえもある。
昨今では、東大生という肩書が必要なのかは疑問である。社会で活躍できる人=東大卒業 という定義がそもそも疑問視されているからだ。
だって、ただただお勉強ができるというパラメータしか持ってないひとも大勢含まれるのだから。
一方で、
医師として働く研修医たちは、幸いなことにこの競争から脱出できるといえるかもしれない。
医師や弁護士というパラメータは、狭き門の国家資格である以上、『生涯保障の特典付き』なのだ。
ただ研修医になると、いままで日本の教育では答えを求められ続け、常に〇と×と点数によってなされたところから、突然、正解という概念が存在しない医療へ突入する。
たとえば、腹痛できた患者にどこまで検査をするのかに、答えなど存在しない。怖い病気の可能性を考えたらキリがないが、全ての患者にすべて検査するわけにもいかない。
採血やCT検査までして欲しいと希望されるかもしれないし、薬だけ処方して帰ってもらうかもしれないし、そこに正解がないことも多いのが現状である。
医師は、競争社会という概念から脱出することができる一方で、経験を高めるため、勉強の日々が続く。
医師は生涯勉強しなければいけない。ただし残念ながら大学教授を目指さない限りはそこに競争という概念がなくなってしまっている。
ひとつ言えることは幸いにも東大か医学部かどちらかを手にすれば、ある程度の高年収が保障された、世の中が日本には待っている。
そのあとは、どう生きたいのか、答えのない世界に突入した自分が決めることである。
これからの子供は 東大vs医学部 どっち?
偉そうに語る私も小さな子供を持つ父親である。
‘じゃあ、あなたは子供を東大vs医学部 どっちになってほしいんだ‘ そんな質問が飛んできそうである。
選択肢がある問題に、第三の答えを出してよいなら答えはこうだ。(高校生の年頃になった頃に、私の子供が勉強を好きになれば、という大前提が必要である)
親が子供に求めるのはエゴかもしれないが、要するにどちらにも別のステータスという 『おまけ』 をつけたいのだ。
結局のところ私は日本という国に危機感を覚えている。それが日本を出ようと思った一番の理由だ。そして子供が大きくなった頃には、より顕著になると思っている。
今、円安、株価大変動という異常事態に起きている、そしていつ起こるかもわからない大震災や富士山噴火というおまけつきである。
東大を卒業した後も競争社会で戦い続ける人にとって、
学歴競争の次に始まる競争は、年収や就職先の企業、出世によるマウントである。
いつまでたっても競争なのが、厳しい世の中だ。
そして退職すると、儚くも過去の栄光になってしまう。
一方医師になればというと、
日本の勤務医の年収は1300-1700万円程度が相場であり、給料も安定しており、やりがいも十分にある。
この額は世間から見れば非常に高年収だろう。
ただ医療の収入源は、厚生労働省が決めた保険点数である以上、おそらく、日本においてはこの年収は100年後も変えることができない。
たとえアメリカやオーストラリアの平均年収が3000万円になろうが、日本の医療費や保険点数を変えるには大きな波紋をもたらすであろう。
日本という国の、医療費を上げようとすれば国民の猛反発があることは目に見えてるからだ。
国際情報社会、多様性が進む一方で、どんどん民主主義による格差が進み、生きにくくなる世の中だ。
子供の安定を考えてしまう親にとって、このご時世では、日本人というマイノリティに所属している以上、何を目指すにしても子どもの将来が心配だ。
わが子よ、大志を抱け。
my child, be ambitious.