
今でも指導者になりたかったころの気持ちがときおり顔を出してくる。
高校2年のときに「スポーツトレーナー」になろうと思って上京を決意した。
当時は「スポーツトレーナー」の他に「指導者」という道へ進むことも頭にはあった。ただ、中学・高校をまともに勉強してこなかった自分にとって、「教師になる」ことは到底イメージできることではなく、早々に諦めた。教師にならずとも指導者としてやっていくこともできたのかもしれない。が、指導者を本業としていくことは選択肢に上がっていなかった。
なぜ「指導者」がよかったかと言うと、何かで困っている人に対して教えたとき、本人の雰囲気が明るくなる様子や何かに気づく様子を側で見ていられることに悦びを感じていたから。これはスポーツトレーナーを志したきっかけでもある。
それともう一つ。高校までに自身が経験した「教える」ことについての疑問がだんだんと膨らみ身体の中を巡っていたこと。先に書いた理由より、こっちの方が本丸の理由。一言に「指導者」「指導法」と言っても人の数ほどに違いがあり、その頃から「自分だったらこうしたい、これはしたくない」など考えることが多く「指導者になりたい」と思っていたときの動機として大きかった。
今は高校生のときに描いていた「指導者」とは違うところにいる。「教える」というと「教える側・教わる側」という二元性になりやすいが、今の自分はそういう気持ちで人と関わることは少なくなった。