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母に肺ガンが見つかり、1年が経った今現在

ちょうど去年の今頃に母は手術を受けた。

その時の心境や、母とのエピソードなんかを軽く話していこうと思う。

去年の5月初旬に病気が発覚。その前から少し異変はあったようだったが、特段気にせず生活をしていたそう。

元々、数年前から甲状腺の病気を発症し通院していたのだが、担当の先生から「どうも気になることがあるから精密検査をしてほしい」と言われ、調べてみたらガンが発覚した。

1番始めはステージ4の疑いがかかり、手術も出来ないと言われたのだが、最終的な判断としては、ステージ3でリンパへの転移があるという風に診断をされた。

大きい病院の先生からは、「まだ年齢が高齢ではないから、手術で取り除いて頑張って根治させましょう」と言われた。

始めにステージ4で手術も出来ないと言われた時は、本当に辛かった。

もちろん、宣告された本人が1番辛かったはずだとは思うが、その内容を聞かされた時は涙が数時間止まらなかった。

僕はちょうどその時、出先で外にいたのだが、その場に座り込んでしまい人目も憚らずに涙を流していたことを覚えている。

いつか両親が亡くなってしまうことは、なんとなく想像はしていたが、現実に突きつけられると、それは想像を遥かに超えるほどダメージが大きかった。

僕の母は、底抜けに明るく、ポジティブな正確で、誰からも好かれる奇抜な女性なのだが、この時ばかりはかなり憔悴していたことを覚えている。

それから手術をするまでの間、「大丈夫やから!心配せんでも治るけん!まだやり残したことがよーけあるじゃろ?60やそこらで死なせんで!」と会うたびに僕は母のことを励ましていた。

そして、6月の初旬に手術を受けた術後の面会で、今までかつてみたことのないほど弱りきって、まともに会話も出来ない母と対面をした。

この時僕は、ガンを宣告された時を遥かに凌駕するほど辛くて、母の顔を長く見ることが出来なかった。

手術をする前にはケラケラ笑っていた人が、今にも命を落としてしまいそうなほど弱り切っていたからだ。

僕はあまりに辛すぎて、手を握り「頑張ったね、おつかれさん。また明日来るけん。」とだけ伝えてその場をすぐに離れてしまった。

翌日病室に行くと、やはり弱り切って動くことの出来ない母がそこにいた。

しかし前日よりは話すことも出来て、多少冗談も言えるくらいには回復していた。

この入院は2週間もしない内に退院することになったのだが、術後の2週間後くらいから、次は抗がん剤治療が始まった。

相当辛い戦いになる、と覚悟して臨んでいったのだが、母の身体が抗がん剤治療に耐えられそうにはなく、約1週間と少しで抗がん剤を受ける為入院をして、一度退院し、約2週間開けて再び入院というサイクルを4クール行う予定が3クールで中断になり、2クール目からも抗がん剤の量を減らして行っていた。

その間の話になるが、病院食があまり口に合わず、食欲も沸かない、吐き気がすごい等副作用が出ていたのだが、「その時に食べられそうなものはある?あるなら買ってくるよ。」と言ったら、チャーハンが食べたいと言われた。

しかし、コンビニやお店のものは味や匂いがキツくて吐き気がするから薄味がいいと言われたので、僕はこう言った。

「俺が作って持ってくるわ!」

母は少し怪訝そうな顔をして、

「アンタ、料理なんか出来るん?不味いもんは今は食べれんよ。」

と言った。

僕は母に手料理なんて振る舞うなんて、この先何度もあるわけでもないから、どうせならうまいもん食わせてやりたいと思い、全力で納得いく味を作り、翌日病室に持っていった。

タッパーを開けた母の第一声

「見た目と匂いは完璧やん。まぁ問題は味とご飯がちゃんとパラパラになっとるかよ。」

とブツブツ言いながら食べ始めた。

結果は完食。

母が食べ終わった後に言った言葉は忘れない。

「ふーん、チャーハンはウチより上手く作るじゃん。不味かったら、今は我慢してまで食べられる状態じゃなかったけど、明日も持ってきてもええよ。」

負けを素直には認めなかったw

でも、食べてくれたとか褒めてくれたとかではなく、自分が母にこういうことが出来たことが何より嬉しかった。

親孝行をろくにしてこなかった分、こんな小さな事で家族の絆というか、愛を感じとれたことが素直に嬉しかった。

話は飛んでしまうが、1年経った今、母はどこにも転移もなく、回復したどころか、むしろ前より自由に人生を謳歌しているw

もちろん、まだ心配な面は多くあるが、生きている間に出来るだけ親孝行をしたいと思っているし、まだまだ元気でいてもらわないと困る。

いずれ必ず別れは訪れてしまうが、全力で自分の人生を楽しんで、悔いのない人生を送ってほしいと心から願っている。




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