りんご1個の値段と400ドルの時給
ここ数ヶ月、「値段について」を考えていました。
具体的に考える時には、りんごの値段と金融ブローカーの時給の関係について、例えば、りんごが1ドルだとして、金融ブローカーの時給が400ドルだとしたら、金融ブローカーの1時間がりんごの400倍の価値だということなのか?
私の中では「違う」という感覚があるのに、お金に換算するとそう見える。
一つには、地球から、太陽から、宇宙から受け取っているものに値段がついていなくて、人間がすること作ることに値段がついている、というのに気づいていました。
そして、最近ようやく「そもそも値段をつけるというのは人間が考え出したことで、それは『価値がある(値する)』というレンズを通して物事を見ている、そしてそのレンズを通してみている限りは「りんごは時給の1/400なのはなぜか?」ということしか思いいたらないのだ、ということに気づきました。(そして気づいたら何と馬鹿馬鹿しい、と自虐的に思うのと同時にprogressly less stupidである(だんだん愚かでなくなる)ことのありがたさを味わっております…)
そして、人間が人間がすること作ること、というよりは、人間が価値を見出すものに値段がついている、ということに気づきました。
りんごもブローカーも精一杯生きていて、最善を尽くしていて、それを喜ぶ人がいたり、味わう人もいる。そこには貨幣システムレンズでは測れない、みられないことがあります。
「数や時間、重さのように計測、書き留めて残せるデータ(認知できること)と非言語だったり経験だったり、自分の中で今感じていること(非認知なこと)がある」、測れないものがある、ということを覚えておきたくて書き留めてみました。
そして、私が自分の生き生きさや経験、人生を、そして相手の生き生きさを十分にお祝いしたいと願い、お祝いしながら生きていて、そこに資本主義的、貨幣システム的な「価値」という考えがあることに気づきつつ、今ここを味わうことの連続で生きたいなぁ、と考えています。