昭和という育った環境
わたしは次女がうまれるまで、かなり愛されて育ったつもりでいた。
中学生くらいで友人と「子どもができたらどんな名前にする?」などという話の延長で「わたしは子供ができたら、母がわたしを育ててくれたように育てる。だって、ほら、わたしまっとうに育ってるから、とりあえず母の育て方を土台にしとけば、大丈夫でしょ」なんて言っていたくらい、わたしも母のことが大好きだった(今でも好きだけど、ニュアンスが全く違う)。
でも、最近気づいたのは、わたしが自分に近しい人(家族、友人)のことを貶めるような発言をしてしまうのは、わたしにとっては親愛の気持ち、そのくらいこころを許している、自分のことのように思っている、つもりで言っていたのだけれど、失礼極まりない、ということ。
そもそも、そんなに好きな人をどうしてそんな言い方をする?おかしいよね。
夫はスコットランド人(国籍的にはイギリス人)なので、「うちの夫はそれほどでもない」的な発言をする度に烈火のごとく怒られた。
百歩譲って日本的な文化では身内は「いえいえ、そんなことありません」「おかげさまで」と言うにしても、わたしは漫才師が相方を下に言うくらいののりで言っていたので、そういう文化がみじんもない彼にはかなり嫌だったに違いない(と今ではわかる。その頃は「日本的にはそういうふうに言うものなの!」と「慣れてよね、もう」くらいに思っていた)。
でもこれは、わたしが親にそうされてきたからだということが最近わかった。親にいろいろ失礼なことを言われてもそれは愛されているから言われていること、言ってもいいことだと思っていたからだったのかも、と。
平成時代に生まれ育った人は、例えて言えばあまり集団でつるんで大きなパーティをしたりせず、個人競技をしている感じなんだけど、一人ひとりがいないとその競技を楽しめないから相手のこともリスペクトしている、という感じがして、うらやましい。
そういう目で見るとわたしにとって昭和生まれは、集団で生きることを前提としつつ、実は個人の成果主義で、相手を蹴落として上に行ったほうが優越感を感じる、みたいな感じ。
これ、人類全体で見ると、人がこれまで繁栄してきたのは助けあってきたからだ、とすると滅亡に向かっている感じだったんだろうか?
そんな、富を持っているものが持っていないものを支配する、とか、消費文化が進んでいくメカニズムについてもちょっと語りたいけど、それは別の機会に置いておいて、今回書きたかったことに戻る。
わたしはいま、NVCというコミュニケーションモデルを用いた共感カフェというものを開催しているのだけれど、このNVCや共感カフェにハマった(渇望した?)理由をつらつらと考えていた。
そうしたら、前回書いた「強要」だったり、「叱られても意味がわからなかったからいつ怒るのかがわからず流れに身を任せるしかなかった」ことを思い出した。
昭和に育った人にはあるあるなんじゃないかと思いますが、
親が激高して玄関からつまみ出されて子どもには時間の感覚がわからないから、いつ家に入れてもらえるのかがわからないまま、でもドアが開いた時に楽しそうに遊んでたりしたら怒りがひどくなるので、なるべくなにもしないようにしてドアを開けてもらえるのを待っていた。しかもドアが開いたら「もうわかった?」とか何のことだかわからないけど「うん、ごめんなさい」としおらしく言って、親の機嫌がよければ入れてもらえる、なにかがうまくいかなかったら「もうちょっとそこにいなさい」などと言われて、放置の時間が延びる。
父親を怒らせるとげんこつが飛んでくる可能性があるので、母親止まりにしておくほうがいいが、その境界線がわからない。しかも父親は「げんこつだぞ」と脅すだけで実際にはコツン、のときと、結構痛いときがあって、それがいつどっちががよくわからないので、父親が怒って「げんこつだぞ」というと怖くて怖くてたまらない。
幼稚園の頃暮らしていた家の近くに近所に草むらがあって、近所の子ども達とよく遊びに行っていたのだけれど、そこに服によくくっつく雑草が生えていた。わたしの場合、子どもだからなのかわたしの物覚えが悪いのかわからないけど、その雑草の実がくっついているとこっぴどく叱られて、玄関の外で一つ残らず取り除くまで家に入れてもらえなかったのだけれど、毎回毎回「ただいま~」と家に入ろうとして母に見つかり叱られ、子どもの手ではうまく全部取れないのでいつまでもグチグチ言われてなかなか家に入れてもらえない、ということがよくあった。
これを今思い出して気づいたんだけど、近所の子どもと行っていたから他の子も玄関で取っていたら気づくと思うけど、外に出されて自分で取っている子どもはわたしだけだったと思う。
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自分に子供が生まれて、長女が好きな玩具、やりたいことができた頃から、わたしは「3歳までは動物と同じようにしつけしないと、その後が大変だから」となぜか思い込んでいて、すごく厳しく育てた。
しかも、触っちゃいけない(危ないとか)ものに触れそうになったらすごい形相で「no!」とまず言って、知らせる、というまるで調教、本当に動物扱いだった。理由を伝えるなんてこと考えてもいなかった。まず体に覚えさせる。親がnoと言ったら反射的にこれはnoなんだ、ということを覚えさせる、という方法だったと思う(その時はそこまで考えていなかった)。
おかげで長女は今でもわたしが言ったことに逆らうと心理的にすごく負荷がかかるみたいで、自分がしたいこととわたしがしてほしくないことの狭間で葛藤が起こるとつらそうだ。
今では、iMessage(わたしはこう思う、あなたが合意、同意する必要はない)で話し、娘にも「あなたはそうしたいんだね、最終的に決めるのはあなただよ」と伝えているが、三つ子の魂百まで、って本当なんだろうなぁ、と申し訳ない気持ちでいっぱいだ(これを打っていても、自分と長女が重なって、彼女の気持ちがわかるので辛くなる)。
次女を妊娠中に「二人目の子育て」みたいな本を読んでいたら「2人めがかわいいのは当然ですが、長子にわからないようにしましょう。長子のこともかわいがってくださいね」のようなことが書いてあって、心底びっくりした。
「え?うちではわたしのほうがかわいがられていたよ?!」って。
里帰り中に「そんな事が書いてあったんだよね~。おかあさんも妹のほうがかわいい?」と訊いたら、母は「え~、わかんないよ、そんなこと」と愛想笑いをしながら席を立った。
そのときにわたしの世界がガラガラガラ~~と崩れた感じ。
「あんなにいろいろ気にかけてくれていたのに、妹よりわたしのほうに期待してくれていたのに、妹のほうが好きとか意味わからないんですけど??!!!」って感じ。
今思うに、わたしは母の言うなりになる扱いやすい子で、扱いにくい時にはガミガミ言えば結局言いなりになる。気にかけてくれたように見えたのは、彼女の価値観を押し付けられていただけど、いわゆる「いい子」に育ったけど、だからってその子を好きとは限らない、という感じか?
もちろん、嫌われていたわけではなく(「お母さん子ども嫌いだから」という発言もあったが…)、彼女なりに愛情を注いでくれていたと思うけど、わたしが長女が幼いときによかれと思ってとんでもない育て方をしていたように、母もそれしか知らなかったんだろうなぁ、とも思う。
そして、そうか、妹は好きなことをしてもよかったのか、と今さらになって気づく。それは妹のほうが好きだったからかも知れないし、次女だから少し手が緩んだのかも知れないし、それはよくわからない。
そんな衝撃を受けた後に次女が生まれ、わたしは常に「次女のほうが好きだろうか?」と自分に問いかけていた。
わたしは長女も次女も別個の人間として好きだ。
どちらかのほうが好き、というのはない(つもり)。
強いて言えば、長女のほうが大人になりつつあるので一人の人として好き。
次女はまだ子どもっぽい(幼いところがある)ので人として好きなのと子どもとして好き、という感じがかなぁ。
でも面白いのは、次女は「わたしのほうが好きでしょ?」と何度も訊いてくること。
長女に言っても「どうでもいいじゃんね~」と笑う。でもそこに余裕が見える。
きっと長女はわたしがずっと思っていたように、自分のほうが親に愛されていると思っているんだろうなぁ、と思う。
次女が何度も訊いてくるのはなんでだろう、と思って、「大好きだよ~♡」とか、「長女と次女は違う人だから、同じくらいぜーんぶ好きだし、2人が得意なことや好きなことが違うのもひっくるめてそれでいいんだよ~」と言ったり態度で示したりするんだけど、13歳になった今でもたまに訊かれる。なんでかなぁ。これに関してはまだ探究中。
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ところで、また思い出したことの一つに、上述のように父が怒るとすごく怖かったのだけれど、母はよく怒っていた。
そして、これはわたしが以前よくやっていたのでわかるのだけれど、父が怒ると手を付けられなくなるので(道が空いているので真夜中に名古屋から新潟に車で帰ることがよくあったんだけど、車の中でうるさいと「降ろすぞ!」と言われて本当に引きずり降ろされそうになったこともある。フリだろうけど、剣幕が本気なので怖かった)、母は父が怒る前に自分が怒ることで盾になっていたつもりもあったと思う。
だから、そんなこともしなくていいくらい、自分の中でコミュニケーションが取れていて、両親の間でコミュニケーションが取れていて、子どもと親の間でもコミュニケーションが取れていたらいいなぁ、と思う。
どういう意味かというと、
「自分の中でコミュニケーション」はなにが不快で怒っているのかを知り、怒る以外の表現方法を選べるといい、ということで、
「両親の間で」は「盾になるために先に怒る」とかじゃなくて、お互いがどうして怒るのか、怒ったときに相手にできることはあるのか、などがわかり合えるといい。
「親子の間で」は、親はどういう気持ちでどうなって欲しいから怒るという行動に出ているのか(本当はその前に怒るんじゃない行動になっているのが望ましい)を子どもに分かる形で伝え、子どももどうしてそれをしちゃうのかしたいのか、が安全を感じつつ伝えられたら、もしかしたら親も怒りじゃない反応が出せるかも知れない、という希望。
そんな希望があるからNVCを学んだり、共感カフェを開催したりしているんだなぁ、と最近気づきました。
子育てに限らず、どんな人にも自分を自分のままでいいと思えて、相手を知ろうとする気持ちを持てたらいいなぁ。
(ああ、また4000文字を超えてしまった。短く書けない…)
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