加藤智大・元死刑囚とわたし
「あいつは社会の害悪だ。排除しろ。日の当たるところに絶対戻すな」。私のことも同じように思われている気がしている。そう思う自分が確かにいる。
加藤の命が先月、死刑の形で奪われたことで、古い記憶がよみがえる。秋葉原無差別殺傷事件が起きた2008年、私は大学1年だった。講義で、フランケンシュタインを題材に「あいつは敵だ。あいつを殺せ、と言っているうちに、忌み嫌うものと自分はそう遠くないことになる」という趣旨の内容を聞いた。「犯罪者を私たちとは違う存在だ」と遠ざけても、社会の問題を解決することはできないということでもあるのだろう、と思った。ノートには、「加藤は自分だったかもしれない、という想像力を持ち続けたい」と書きつけた。
想像力ーー。自分は安全地帯にいる。「加藤とは違うんだ」という宣言にもとれる。今になってそう思う。
今年4月に依存症を再発し、問題の深刻さに真正面から向き合うようになってようやく、私も排除の対象なのだという気がしてくる。正確に言うと、そういうスティグマを自分のなかで抱えてしまうようになった。
復職に際して面談で、言葉を吐いていた。「社会や会社の害悪と思われて、日の当たるところに自分は二度と戻れないのではないか」。
そういう目で、私は反社会的な行為に及んでしまった人々を見ていたことになる。「あいつは害悪だ。危険だから排除しろ」と。自分の問題として捉えたときに、期せずして、生まれてからの30余年、自分がとってきた、思考・姿勢を振り返り、言葉にすることになってしまった。
明らかにしたときに、始まる何事かがある。だと、良いのだけれど。