だめ人間にも条件がある!?~人間として正しい「だめ人間」の作法~
最近「だめライフ同好会」というものを知った。「ダメ人間で集まろう」という趣旨のサークルで、各地の大学で増えつつあるようだ。
自分も「だめ人間」という自覚がある。このようなコミュニティは自分にとっても居場所たりえるんじゃないかと思い、この同好会について調べていた。すると…
上記記事のサムネイルに映っているキャラクターが山田リョウなのは、陰キャだめ人間の諸兄なら言うまでもないだろう。勝手ながら当記事にも流用させていただいた。
また、
どうやら「だめライフ同好会」は、アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」(以下ぼざろ)の同好会だったようである。
2022年の覇権アニメであったぼざろは、「陰キャならロックをやれ!」というキャッチコピーが示すように、主に陰キャにアニオタ層がターゲットと思われる作品である。だが、私はオタク寄りの陰キャであるにもかかわらずこの作品にハマることができなかった。1話だけ見てみたが面白いと思えなかった。
つまり、彼らだめライフ愛好会はこう掲げているということだ。
「だめ人間であるためには、ぼざろ好きである必要がある」
そして私は、前述したようにぼざろ好きなわけではない。つまり私は「だめ人間の集まり」からも否定された、だめ人間未満の存在だったということだ。
ツイッターの引用で失礼するが、この記事の本質を突くようなポストがあったので紹介させていただく。つまり、そういうことだ。
ここで誤解のないよう言っておくと、「ぼざろ好き=だめ人間である」というわけではない。当然である。あくまで「だめ人間=ぼざろ好き」という図式が出来てしまっているだけで、逆もまた然りというわけではない。十分条件と必要条件の問題だ。むしろ私から見れば、ぼざろ好きこそだめ人間の対極に位置するように思うのだが。
いちおう誰でもウェルカムという姿勢のサークルで特定のアニメをプッシュするのは良いのだろうか?そもそも自分はその「誰でも」には含まれないのだろうけど。
結局どいつもこいつも、万人に開かれてる顔をしていながら、少数の「お仲間」で集まることしかできない弱虫なんだ。本当に「だめライフ」を掲げるなら、まずはぼざろ同好会であることをやめ、ぼざろ嫌いな人間さえも受け入れる器量を示されてみてはいかがかな。まあ、ただの「模範的」キモオタの集まりにはそんなことできないだろうけど。
どのみちだめライフは「だめ人間を肯定する」という建前の差は政治サークルなので、ノンポリ的にはダメみたいですね(諦念)