人の頑張りが分からない醜くて自堕落な今日の自分へ

2020年2月13日2時4分、僕はベッドの上でこの記事を書いている。一昨日まで1泊2日で学科の友人とスノーボード旅行に行った体の疲れからか瞼が重くなるのを感じながら、何かに駆り立てられるようにして突如PCを手にとり文字を打っている。

自分にそうさせるのは、昨日までの自分であることを僕は知っている。学部4年時代に書いた論文の加筆修正が半年経っても目処が立っておらず、部活を引退してから運動が控えめになり生活習慣と食生活の乱れからだらしなくなった自分の体を携えて、友達に誘ってもらったプロジェクトの企画を考えながら、思いついたときに細々と続けているギターを弾き、積読している本を手に取っては飽きてYoutubeを見るから読みきらない毎日を続けている昨日までの自分に僕はなんて声をかけてあげられるのだろうか。

いつからか僕は感情らしい感情を感じなくなってしまったように思う。何をやっても楽しくないとか、生きがいが何もないとかそういった気持ちは特にない。昔から感情の起伏が大きい方ではなかったと思うけれど、最近は特に胸を締める焦り以外には感情を自覚していないように思う。スポーツにしろ学校生活にしろ人間関係にしろ、自分の不可侵領域が犯されない範囲で目の前の取れる勝ちを掠め取り続けることを極めた自分は、講義もなければ部活もない自分の予定だけで埋められる1日を使いこなす感情を持ち合わせていないように思える。

この焦りは将来に対する不安なんだろうか、それとも自分で自分を律することができない自身の弱さに対する苛立ちなんだろうか。肥大した自己意識をコントロールできない自分とは対照に周りが見えなくても失敗を恐れず飛び込んでいく周囲の人たちに対する嫉妬なんだろうか。もしこの不安に名前が付いたとして僕は自他ともに認める次の一歩を踏み出すことができるんだろうか。分からない、全然分からない。

みんな分からないなりに今日を生きている。分かっているように見えるひとも僕も同じ24時間の中で生活をして僕たちの生活は回っている。自分はまだ金銭面で自立していないので、大人という立場ですらない。修士課程という曖昧な期間の中で、自分にできることを目一杯やるので精一杯である。となるとやっぱり、山月記がごとく今まで23年間半守ってきた臆病な自尊心が自由な時間と共に与えられた広い世界によって明るみになり、それを「私が間違ってました」と受け入れられない肥大した羞恥心によって輪をかけて拠り所をなくし、何も感じなくなってしまったのかもしれない。書いていてまさにその虎のようだなと鼻で笑ってしまった。(今改めて山月記を読み返したが「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣が各人の性情である」とはまさに正鵠を射る記述である)

自尊心から転々と職を変え最後は発狂して虎になった李徴のようにならないために、僕はこの猛獣をうまく飼い慣らしていかなくちゃいけない。自分の中にあるプライドと羞恥心を客観的に見つめていつかは形を変えていかないと、自分という感情も存在も希薄になってしまうだろう。

昨日までの自分を空虚なものにしないために、今日からの自分がちゃんと自分として社会の中で息づくために、絶えず冷静に状況を見据えて行動していこう。今日の自分の進む道こそが明日の自分が進んだ道になるのだ。


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