2つの科学コミュニケーションを見て思うこと
はじめに
企業・研究所もあるけれど、研究者の多くは大学で教授・准教授・助教・ポスドクなどなどという形で研究していると思います。大学は教育機関でもあるので、多くの研究者は学生を教育・指導する立場に立つことになります。でも、私含め、研究者の多くは研究者であって教育者としての経験はなく、試行錯誤を繰り返すことになり、そこで初めてメンタリングやコミュニケーションについて考えるようになります。そんな中、非常に示唆に富む出来事が立て続けに起こったので、それらを整理して、科学の世界のいいコミュニケーションとは何だろうか考えてみたい。
SSHの高校生発表について
はじめに
SSH(スーパーサイエンスハイスクール)とは、文科省が実施している施策で、特定の高校に理科・数学教育を重点的に行うというものです。時には大学と連携して研究をし、すごく上手くいく場合には学会発表や学術論文まで発展することもあります。私もいろいろな形で高校生の研究に関わることがありますが、レベルが高いものは本当に高いです。
学会のほか、高校生向けにはSSH発表会という形で、クローズドの発表機会が与えられているようです。
https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/r6sshssf_00001.html
その中で一人の高校生の発表についてX上で炎上騒ぎになってしまいました。2024年11月29日現在でもまだ記事は見れてしまいますが、実名も学校名も出ているのでここでは記事に触れず事実だけ整理したいと思います。
事実の整理
高校生の発表について実名・学校名・ポスター付きでネットメディアに掲載された。
ポスターの内容を確認したところ、ある研究者が「このデータからでは結論は導けないのではないか」とコメント、ただし、データのグラフは記事写真の解像度では読み取れず、確証は持てない段階だった。
その研究者はメディアと学校にグラフの情報を聞こうとしたが断られた。
そのやりとりをその研究者は公開し、加えて確証は持てない段階にも関わらず、研究倫理違反である、新規性もなく先行研究の検証もしていない(ただし、ポスターには参考文献が掲載されていました)などと批判を連投した。
結果として十分に検証もされないまま「SSH発表会で高校生が間違った研究をした/研究不正をした/デマを拡散した」という情報が広がってしまった。
思うところ
一番思うのは、この先生の発信によって「間違った研究をした/研究不正をした/デマを拡散した」と印象付けられてしまった発表とその高校生の立場です。記事によれば高校2年生から、1年間くらい貴重な時間を費やして研究したことに対して、確証もないままネガティブなレッテルを貼られ、結果学校の先生や親など周りの大人に負担をかけることになってしまった高校生の心情を想像すると胸が痛みます。
SSHとして研究すると言っても高校生は科学的なトレーニングを受けているわけではなく、研究として成熟しているものばかりとはいえないし、中には「それは明らかにまずいだろう」というものがあるのも事実だと思います。ただ、結局この高校生の発表がそうなのかについては記事に載っているポスターの解像度では結論つけられないと思いましたし、疑問を感じた先生もそう思ったから問い合わせたのだと思います。
専門家の発信は影響力があります。その影響力を科学を名目にしたとて、安易に高校生に負の方向で与えてしまったのはいかがかと思いますし、この点に関してこの先生にまったく配慮する気配がなかったことはとても残念です。
家で実験する中学生への専門家のコメント
ほぼ同じタイミングで、とある化学実験大好き中学生が毒劇物取扱者を取得して家で実験しているという記事が出ます。これに対して化学の専門家がXで以下のようなツイートをしました。ここでは中学生の名前、記事を削除して引用します。
SSHのケースとの違いを考えてみる
文書として意見を整理している。
相手を尊重し、否定する意図がないことを強調した書き方をしている。
相手が気づいていないと思われるポジティブな点(分析の面白さ)について触れている。
次のステップとして、相手の望みを実現するにはどうすればいいかを具体的に示している。
SSHのケースと比べて、私は総じてすごくいいアプローチをされていると思いました。家で実験をするべきでない理由について整理されているだけでなく、分析の面白さという、おそらく中学生当人が気づいていないおもしろさに触れて、ポジティブな指摘をしていたことが示唆に富んでいると思います。そして、最後にこのポジティブな目的を達成するためにどうすればいいかを示唆するところで締めくくっています。
また、文書として整理して直接やりとりをしないで間接的に伝えるというスタンスもいいと思いました。SSHのケースのように直接コンタクトを取ること自体は否定しませんが、相手の負担になるような選択肢は避けるべきだと思いますし、直接コンタクトをするからには、顧問として参画するなど直接コミットするくらいの覚悟がないとするべきではないと思いました。
感じたこと
「科学は平等」というけれど
SSHの例では特に顕著でしたが「学問の世界に出てきたんだから間違っていたら批判されて当然、科学の議論は平等」という主張は特にアカデミアの世界では根強いです。もちろん科学に議論はつきもので、それ自体は否定する物ではありませんが、じゃあ言い方を考慮しないでいいかといえばそういうことではないということを強く感じさせる2例となりました。
そもそも「科学の議論は平等」なんでしょうか。経験値や立場の差があると平等じゃないんじゃないでしょうか。例えば研究室の教授と助教の間ですらパワーバランスが違うわけで、そのなかでちゃんと科学の議論が成り立つでしょうか?意識しなければ、教授の言葉の方が強くなるのではないでしょうか。
そしてこちらも根強いですが、「科学の議論はお互いの主張を議論するのであって相手を攻撃するわけではない、だから激しく議論してもいい」という考え方ですが、これは多分因果が逆じゃないかと思っていて「激しく議論しても大丈夫な相手」という信頼関係があるから成り立ってるんだと思うのです。なので、SSHの場合のように信頼関係が成り立つ前からデータを要求したり、批判したりするというのは通用しないのではと思います。
専門家は未熟者にネガティブなことを簡単に言える
SSHの高校生の例でも、おうちラボの中学生の例でも、専門家は彼らにネガティブな指摘をいうことは簡単にできます。これは経験値やパワーバランスから考えても仕方のないことで、教授→助教でも、助教→大学院生でも博士課程→修士課程でも同じだと思います。
おうちラボの中学生のケースでも廃液処理や安全衛生の問題を取り上げてやめろと言うことは簡単だったでしょう。ただ、その方法で見えない価値(ポジティブな面)を説得力を持って示すということは本当に考えないとできないことだと思いました。
ただ褒めるでもなく、説得力を持ってポジティブな点を伝えるって本当に大変だと思います。
研究者も社会から離れられない
「研究者は研究をする。社会に気を使っていては、研究はできない」というけれど、本当だろうかと思います。私は工学の畑なので特にそうですが、研究において「社会がどんなことで困っているか」を知るためには社会からは離れられませんし、教育して学生を社会に送り出すためにはやはり社会の中にいないといけません。私は「アカデミアは社会に忖度せず物を言うべきだ」という考え方からは距離を置きたいと思います。
Xでもポストしましたが学問を隠れ蓑にして社会不適合な言動を正当化することはやめないと、どんどんアカデミアの居場所は無くなっていくんじゃないかと危惧しています。