大学教員への道(その3):英語試験、そして英語教育の未来

今回は大学院受験で多く行われている英語試験についてまとめるとともに、今後の社会で英語を身につける必要があるのか、という英語教育のあり方について意見を書ければと思います。


※今回の記事は、僕が行っていた文系分野の大学院受験の事例紹介です。大学によって試験方法は異なりますので、あくまで参考までにお願いいたします。


大学院受験の試験内容

大学院受験では、各大学が独自に定めている試験方法によって希望者の選抜が行われます。試験内容は大学によって異なりますが①英語、②研究計画書、③面接、④専門科目試験あたりがメジャーな試験内容になっているかと思います。特に①~③はほとんどの大学で採用されている試験内容ではないでしょうか。

近年、社会グローバル化や研究の国際化、大学の国際化戦略などを背景として英語が重視されるようになっているのは周知のとおりです。大学院受験でも英語の能力は最低限必要になってきます。英語の試験では、各大学が独自に作成した問題を解くパターンと、TOEICやTOEFLなど学部団体が実施しているテストを事前に受け、その評点を提出するというパターンが多いのではないでしょうか(後者のパターンが多くなっている気はします)。


求められる英語のレベルと配点

求められる英語能力ですが、僕の進学した大学院では博士ではTOEIC700点くらいは欲しいよね。といった感じでした。ちなみに僕は全く留学等経験がありません。試験対策前のTOEICの点数は550点でした。英語は10年後くらいには同時通訳や翻訳アプリの登場で自身が身に着ける必要はないと思っているので、大学院受験の時には1週間ほど勉強して点数を700点まで上げるようにしました。

点数のつけ方は、僕の進学した大学院ではTOEICで850点くらいが満点扱いとなっていました。そこから点数を換算する形です。なので700/850=約80点という感じです。受験者の多くは僕より点数が高い人が多く、留学経験者などは満点近い点数をたたき出していました。個人的には「研究能力は英語じゃ測れないだろ」と憤りを感じていたところです。

入試評価項目の中で英語の配点は結構重く、確か50%くらいが英語試験の占める割合になっていたかと思います。大学院受験だから研究能力や専門の知識を評価してほしいところではあります。が、基礎的な学力や課題に取り組む力を客観的かつある程度平等に評価する手っ取り早いため、各大学で導入しているという状況かと思います。


大学院生活での英語の必要性

試験で重視される英語ですが、大学院入学後に英語を使う機会はどれだけあるのでしょうか。答えは、「使うときはあるがめちゃくちゃ高度な英語能力は必要ない」というのが僕の意見です。

大学院生で主に英語が必要になるシチュエーションは、英語論文を読む時です。大学院では、論文や本を読み、その内容をまとめ、ゼミで報告するといった作業を行うことが多々あります。海外の方が基本的には研究は進んでいますので、読んだり報告したりする論文は必然的に英語で書かれたものも多くなってきます。この時、英語を読む力がないと苦労することになるわけです。

しかし、悲観することはありません。上述の通り、一週間漬けの英語能力で大学院試験を突破した私は英語なんて読めません。そんな時に役に立つのが翻訳ツール(グーグル翻訳)です。近年、翻訳の精度が非常に高まっており、論文の概要を把握するだけならグーグル翻訳に読みたい部分をコピペして翻訳すればそれで内容を把握する上では事足ります。もちろん、研究に引用する際には精読は行いますが...。


英語は必要か?

以上、大学院における「英語」についてまとめてきたわけですが、英語教育・国際教育に関係して個人的意見を最後に述べたいと思います。単刀直入に言うと、僕は「英語ぺらぺら、英語で読み書きが完璧にできる」というのは今後の社会でそこまで必要無いのではないかなと思っています。厳密には、英語の読み書きやスピーキングの能力は今後テクノロジーの進化で不必要になるのではないかと考えています。

英語力は自身が身につけなくても様々なツールを駆使すれば補うことができる、よってそこまで必要ではない。というのが自分の考えです。例えば、英語論文を書くのにも、英語の校正業者がありますので、それらを活用すれば英語で論文を書くというのも完璧な英語力がなくても可能になってきています。

また、英語論文を読むのにも翻訳サイトを用いれば良いですし、英語を話す、というシチュエーションでも最近では同時通訳を行ってくれるアプリや通訳機器が登場しつつあります。これらのテクノロジーの登場を考えると、英語の読み書き話しの能力は、今後(おそらく10年後くらいには)多くが外部サービスで代替できる社会になるのではないでしょうか。そうなると、英語能力の教育というのはそこまで必要無いのではないか、というのが僕の意見です。


21世紀の英語・国際教育

無論、英語教育・国際教育が必要ではないというつもりはありません。英語が標準的な言語である以上、それをある程度理解できることは必要なことだと思います。しかし、グローバル化が進み、国家間、人種間、民族間の共生が求められる今後の社会において、むしろ必要になるのは、異なる他者を理解するための文化や歴史の教育なのではないでしょうか。

読み書き話し、という英語の能力はあくまで海外の文化(相手)を理解するためのツールであり、それは近年様々なサービスで代替できるようになってきています。グローバル化していく社会で多様な人々と生きていくためには今後は、相手の意見を理解するための文化や歴史の教育が必要です。

例えば、人種差別がなぜあるのか、なぜ特定の地域で紛争が起きているのか、なぜあの国とこの国は仲が悪いのか、などなどは単に英語ができたから理解できるというものではありません。これらを理解したうえで共生社会を目指していくためには、単に英語が読める、書ける、話せるということ以上に、異なる国や民族の文化や歴史を理解する必要があるのです。

英語ができる、というのはそれらを理解するうえでの手段であって、目的ではないと思います。もちろん、英語ができる事によって文化や歴史の理解が進んでいく、ということもあります。が、英語の読み書き話しのツールが進歩してきた現在においては、英語が読める、書ける、話せるということのアドバンテージ(重要性)はあまりなくなってきているのではないか。であるとするならば、より重視すべき教育の内容は他にあるのではないか、というのが僕の考えです。

要は、「英語が読めます!書けます!話せます!」といったところで、「ふーん…。それで?」「別に翻訳ツール、同時通訳ツールがあるからそんな自慢にならないよね?」となる社会が目前に迫っているということです。今後の社会で重視すべき英語、国際教育は、他にあるんじゃない?、と英語ができない僕は思っています(負け惜しみのようにきこえるかもしれませんが…)。


話はそれましたが…総括

・試験において英語は必須になる場合が多い

・ただ、めちゃくちゃ高度な読む、書く、話す能力は必要無い

・各種ツール(翻訳サイト、校正業者)を用いることで英語力はカバーできる


今日はこのあたりで。

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