なぜ僕らは「僕ヤバ」で限界になるのだろう
コスモです
今日は「僕の心のヤバイやつ」の更新がありました
とてもよかったです(限界感想)
最近アニメ版の動画や声優も発表され最もアツいマンガの一つと言えるでしょう
毎週火曜日は市川京太郎に限界化して仕事にならないTwitterの皆様と存じます
(仕事をするとは言っていない)
今回はなぜ我々オタキたちが「僕ヤバ」、
ひいては市川京太郎に限界化してしまうのかを考えてみようと思います
①俺たちの青春はどこへいった?
みんな何処へいった 見守られることもなく(地上の星)
多様性が叫ばれる昨今の世の中で幸せの形というものも非常に多岐に考えられるようになりました
男は外、女は家といったステレオタイプを口にすれば間違いなく非難の対象となるでしょう(Poison…)
しかしそうはいっても人間が三大欲求から逃れられないようにある程度の幸せのステレオタイプというものは存在するように思います
その幸せのステレオタイプの一つは、広く一般的に使われる「青春」です
この「青春」という文字の意味を改めて調べて読んだとき、どのような気持ちになりましたでしょうか
夢や希望に満ちた活力のみなぎる若い時代はとうに過ぎ去り俺の人生の春はいつ来るのかなどと空ばかり見ている日々
その空の向こうにこそ僕らが失った「青春」
市川京太郎が歩む山田杏奈との学生生活を幸せのステレオタイプを追いかけながらページを進めるごとに胸が締め付けられるのです
まさにこの感情こそ限界
つばめよ僕らの青春は今 何処にあるのだろう
②愛を取り戻せ!
熱い心クサリでつないでも今は無駄だよ
邪魔する奴は指先一つでダウンさ(クリキン)
俺らの市川京太郎は様々な場面で山田杏奈への気持ちを自己否定したりまた山田杏奈を想う他の人々と自分を比べたりして、時に自己嫌悪に陥りながらも、自分の心に正直に向き合いながら
「それでも僕は山田杏奈が好きだ」という気持ちを丁寧に確かめていきます
俺は懸命に走る主人公が大好きです
弱い自分と向き合いながらひた走る姿ならなおさら
特に、僕ヤバでは主人公の背中を押すのが
最後はいつも自分自身だという点が大好きです
青春群像劇では複数人の若者が登場し、多くの人々が関わり合いながら喜び、苦悩し、成長していく姿を描くのが王道です
もちろん僕ヤバも例にもれず多くの登場人物が市川京太郎に影響を与え、一見冷めたように見える、いや冷めたように見せたい心を刺激していきます
自分に自信がないゆえに、己の背中を押せるのは自分自身しかいないのです
一度走ると決めたなら止まらない主人公、
山田杏奈を守るために
アクセルとブレーキを間違えて
自転車を川にぶん投げてしまう市川京太郎
おもしれぇ男…
読者は限界化しながらも
最後は北斗神拳で相手を爆発四散させる
ケンシロウのごとく
桜井のりおに全幅の信頼を寄せて僕ヤバを読み進めることができるのです
爆発四散するのは読者の魂ですけど
③お前の存在しない記憶を呼び覚ませ
俺が僕ヤバで無限に好きな話があるんですけど(ウインカーなしの車線変更)
Karte.42「僕は利用された」からのKarte.43「僕は山田が嫌い」です
単行本持っている人は今すぐ僕ヤバ3巻を本棚から引っ張り出して読み直してください
最近は市川が成長して安心して僕ヤバを読んでいますがこの2話を読むと当時の不安定な市川を思い出すことができると思います
この不安定さがいかにもジュブナイルのよさがあります
時々忘れそうになるんですが彼らは中学生なんですよね
俺が中学生のときはもうヴッ…
とにかく、僕ヤバは俺たちの存在しない記憶(リアル)に語り掛けてきます
ワシの中学時代に似とるなぁ…
これワシの中学時代じゃないか?ウヌは盗人か?
となるわけです
最後に桜井のりお先生の「僕の心のヤバイやつ」のタイトル説明を見返して締めにしましょう
わかってんだろ?PEACE…
PS
ラブコメ漫画なのに「俺僕ヤバ読んでる」って人に言いにくいの、なんで?