「許さなくていい」が救いである
私は虐待をうけて育ったと思う。
内容まで詳しくは書かない(気になる人は他の記事読んでください)が、虐待について、一つ確実に決めていることがある。
それは絶対に許さない、ということである。
少し大人となった私は、親を憎むことに疲れてきた時があった。周りからも、私自身も「もういいじゃない、無事に大人になったんだし、許しちゃったら」と思ったこともあるし、たぶんあの時は許していたし、むしろ親の境遇に同情すらしていた。「あんな環境じゃ、ああなっても仕方ないのかもな、可哀相だな」なんて思っていた。
今、私は許さないと決めている一つの理由がある。それは、「私がそういう大人にならないようにするため」である。
親の境遇?環境?病気?そんなの関係ない。
私にされた事がそんなことで正当化されるのか?
私は許しそうになった時に、ハッと我に返って考える。
もし、私に子供がいて、あの行為を自分の子にされた時、許すの?もし、私があの時の小さい小さい私に会えるとして、小さい私に「大人にも事情があってね、すごい環境で育ったみたいなんよ、そしてね、たぶん病気だから、仕方ないんよ」なんて言えるのか?
私はきっと立ち上がって大声で「逃げろ!!!!!!助けてくれる人がいる!!!!!!ここは正常じゃない!!!!!!あなたは絶対に幸せになるから、走れ!!!!!!!!」と叫ぶ。
許すな、絶対に許してはいけない。
これはとてもエネルギーがいるし、とても疲れる。許してしまった方が楽なのだ。でも絶対に許してはいけない。
許してしまったら、あの行為が許されるものだと思ってしまう。そして繰り返してしまう。あの行為をしてしまう大人になる。あの行為を許してしまっているから。
虐待の前に、両親の背景だったり、虐待のあとに、それでも育ててくれたし、とか、同情の余地がでてしまう。納得はしてもいいと思う。あの環境で育ち、あの境遇で虐待してしまったのか、なるほどな、許さねえけど。
情状酌量の余地があるとしても、許されざる行為は許してはいけない。自分が繰り返さないためにも、絶対に許してはいけない。
それを忘れなければ、許してねぇぞ、と思いながら、どう接していくか、が問題である。私は完全に縁を切った。しかしこれから何かで接触することがあるなら「許していないぞ」という気持ちを忘れずに円滑に事を勧めたい。お互いのためにも、それが最適だと思う。
(これは許している人を否定する記事ではありません。私が許さないという道を選ぶまでの過程を記録しただけの記事です)