「生きててよかった」と「産まれてよかった」の違い
今日、夫と夕食の間、ずっと話していたこと。記録のためにここに残したいと思う。夫の胸の中でぽろぽろと泣いて、温かい飲み物を用意して今PCの前に座っている。
私は素晴らしい夫と出会えてとても幸福である。
仕事にも不満はなく、ミスをしたり、褒められたり、人の役に立ったり立たなかったり、なんやかんやお金をもらい、好きな食べ物やお菓子や花や本を買い、夫とデートし、落ち着く家に住み、楽しく暮らしている。
生きていることになんら不満はない。
ただ、常に、心の奥底で常に、「生まれてこなければ」と思う。
19歳か20歳くらいの二十歳そこそこの私は死にたいと常に思っていた。結局、夫の助けもあり、病院からお薬をもらい、現在は「生きててよかったなぁ」と思う日も多い。
私は「生きててよかった」と「産まれてよかった」は全く別のものだと考えている。
前者は、生きるという選択を続けて良かった、という意味であり、後者はこの世に誕生して良かった、という意味だと思う。
私は、「生きる」という選択を「自分の意志で」続けて良かった、と感じている。ただ、この世に誕生するのは私の意志ではない。
私は両親の子作り会議に参加した覚えはない。
母と父の意見を聞き、このような環境ですがどうでしょうか?とプレゼンを受け、okを出した覚えはない。つまり「私の意志で」誕生を決定したわけではない。
だから、「産まれてきてよかった」とは感じない。むしろ、「産まれてこなければよかった」と思う。
もちろん、産まれたからこそ、最愛の夫と巡り合い、恋に落ち、結婚し、幸せな人生を歩めている。しかし、産まれなかったら、その幸せもないが、あの、あの地獄のような、死にたくて死にたくてたまらなかった時間も帳消しにできるのだ。すべてが無に帰る。
私は「生」を肯定してしまうと、あの時、死にたかった私を否定しているように感じるのかもしれない。あの時の私はあんなに苦しかったのに、それがわかった上で「産まれてよかった」とは思えない。やはり、「生きることを選択してよかった」「生きててよかった」と、なる。
夫は私によく「産まれてきてくれてありがとうねぇ」「君が産まれてきてくれたから俺はすべてが始まったんだよ」と言う。私が生誕したことを私以上に喜び、慈しみ、愛しく思ってくれている。
「それでも、やっぱり、産まれてこなければ、あんなに苦しむことはなかったのに、とは思うよ。その反面、あなたとの生活はこれ以上ないくらい幸せだから生きててよかったとも思う。」
こういうと彼は悲しそうに笑って、本当に本当に苦しかったのに、生きててくれてありがとうね、と言う。
私はいつか私が産まれてきたことを肯定することができるのだろうか。まぁ、肯定できてもできなくてもどちらでもいいし、ただ「生きる」という選択は続けだろう。まだまだ生き始めて20年そこそこの軟弱な人間に何が分かろうか。「生きる」ことを肯定できたのだから何十年後かには「産まれたこと」を肯定する日がくるのかもしれない。