シンフォニックレイン 考察・続感想【ネタバレあり】


プレイしてから数日経ったが、いまだにシンフォニックレインをプレイした余韻からさめないでいる。このゲームの何がそんなに良かったかのだろうか。このゲームをして、ハッピーエンドを見た後のようにスッキリとした気持ちになったわけではない。ただ、しみじみとした気持ちが残っているだけだ。このしみじみした感情をよいと思っているのかもしれない。
だが、それだけではない気がする。
まず、このゲームの雰囲気を私は気に入っていた。突拍子もない現実から離れた設定をこのゲームは持たない。(異能力を主人公が使えるわけでもなく、主人公が特別な何かを持っているわけでもない)
少し変わった点があるとしたら妖精が出てくるところ、フォルテ―ルを魔力を使って演奏するところくらいだろうか。でも、この設定があったからと言ってあまり現実離れした話であるという感情を持たなかった。
このご都合主義のない現実的なイベントの数々とリアルなキャラクター達の感情の動きを魅力的に思ったのではないか。
そうすると、ご都合主義的な展開に見えたフォーニエンドに違和感がうまれる。それからは、シンフォニックレインの考察サイトを読み漁った。
以下ではそれらのサイトの人々のシンフォニックレインの考察を私が読んだうえで、私の感情を吐き出したものになるのでご留意を。



・フォーニエンドの違和感

最初、フォーニエンドはご都合主義が少し入ったハッピーエンドだと思った。しかし、この作品がご都合主義的なことを安易にするだろうか。それはこの作品で魅力的に感じていた感情移入できる要素を無視した行為にならないだろうか。ある考察を見て、私は度肝を抜かれた。

”フォーニエンドでトルタが姿を現さないのはおかしい。あれがハッピーエンドなら最後のイベントCGではトルタ・アル・クリスの3人が描かれているべきである。”

”なぜal fine(終わりまで)ルートのように新規でフォーニルートを追加せずにda capo(最初に戻る)の括りにフォーニルートを入れたのか。
フォーニエンドは真の結末ではないのではないか”

フォーニエンドでのアリエッタは実はトルティニタではないのか

この考察を見た時、私は唖然とした。
確かに、トルタ真エンド(al fine)を見た時には後味に少し悪いものが残るが話全体としてみた時にこうなるべくしてなった感があった。
フォーニエンドを見た時に、ご都合主義的なものはあるもののアルとのハッピーエンドを見れたことの嬉しさがあったため多少シナリオの流れに目をつむってでもアルとのグッドエンドを作者が見せてくれたのだと思っていた。
だが、それは違うのではないか。
そう思うようになって、私の中の雨が再び降り始めたような気がした。

・フォーニエンドの考察

フォーニエンドでのアルはトルタが変装したものだと仮定してみよう。
そうすると納得のいくシーンがいくつかあった。
まず、クリスが街に帰ってアルと思わしき人物と再会するシーンだ。
このシーンでフォーニは消え、アルは奇跡的に意識を取り戻す。
この感動のシーン、もし本当にアルだったらクリスと一緒にいることを喜ぶと私は思う。しかし、ここでアルが発した第一声は喜ぶ声ではなく、謝罪だった。
「ごめんなさい」
なぜ、アルが謝る必要があるのだろうか。
その理由がトルタがアルの振りをして騙していると考えると納得がいく。
そして、そう考えるとフォーニルートでアルが登場して以降、トルタが出てこない理由にも説明がつく。
つまり、フォーニルートでのアルはトルタが変装した姿なのだ。
(普通は3年も発声をしていなかったら、声がしわがれていてもおかしくないのにそれがないのも違和感がある)
そう考えると、フォーニエンドはハッピーエンドなどではなく、アルと生きていこうと決意したクリスが、アルの変装をしたトルタと暮らしていくという結末なのではないだろうか。アルの死は確定していて、それを変えることはできないのではないだろうか。

・トルタ真エンド(al fine)

フォーニルートの結末を考えると、トルタ真エンドであるal fineルートが唯一、トルタが嘘をつかずにクリスに思いを伝えられるルートになる。
al fine、アル(al)が死ぬ、終わる(fine)ルートが作者が真の結末にしたかったものなのではないか。(実際にsteamでプレイしたときにal fineルートはTRUEエンドになっていた)
このルートではクリスはトルタが好きという気持ちを偽らずに気持ちを素直にトルタに伝える。トルタもクリスに自分のことをアルだと偽らずにクリスが好きだということを伝える。
そして、アルがいる街に帰るときにトルタが見せたすべてを許すかのような表情を見て、クリスが見ていた雨はあがる。(これは画面下のpiova[雨量]ゲージが0になることからも明らかである。)私はこのときにクリスがトルタのことをアルと重ねて見て、アルがトルタとクリスが結ばれることを赦してくれたと思った、それと同時にクリスがトルタと結ばれることを自分自身に対して許した瞬間ではないかと思った。

・この作品は結局何の話だったのか

この作品は「嘘」、「愛」、「赦し」の話だったと個人的に思う。
トルタはクリスのために「嘘」をつき続けた。クリスを好きだという自分の気持ちにさえ「嘘」をついていた。でもクリスのことを何よりも「愛して」いた。
クリスは自分の気持ちにずっと「嘘」をつき続けていた。トルタのことが本当は好きだという気持ちに。でも、クリスはトルタだけでなくアルのことも好きだった。でもその好きは恋愛感情ではなかったのではないか。親愛、友人、家族としての好きだったのではないか。トルタに対してだけ「愛情」を持っていたのではないか。
そんなクリスとトルタが自分たちの「嘘」から解放され、自分を「赦し」、アルからも「赦されたい」とかった、そんな話だと今思う。
それが叶うのがトルタ真エンドのみだったのだろう。
だからシンフォニックレインという作品はトルタ真エンドで幕を下ろす、そう私は思っている。

・おわりに

結局のところ、これらは個人の感想・考察であるので納得できない人もいるかと思いますが、ご了承ください。
今まではsteam版のみでパッケージ版に付属のSSを読めてなかったのでこれから買って読みたいと思います。
noteでも買えるので、読みたい人はぜひ。

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