新しい公共劇場の姿をもとめて ~「芸術」から「芸道(GEIDO)」へのパラダイム・シフト(試論)~
西田奇多郎
1.文化芸術事業 2.0「芸道」の理論的前提
西洋における「近代芸術」観が世俗化した「神学」であることはすでに述べました(『「芸術神学」批判序説』)。
西洋社会に「近代芸術」が根づくのはそれがお馴染みの「神学」であるからであり、東洋社会に根づきが悪いのは、西洋ローカルな「一神教的芸術神学」観を東洋社会が文化的に共有できないからです。「進んでる(正しい)/遅れてる(間違い)」とかいう問題ではないでしょう。
芸術愛好家の多くが、〈芸術〉の普遍性と、「近代芸術」のローカル性との間にある差異に無自覚でいるように思います。自分が好きなものは普遍的なものあってほしいと願うのは欲望であって、単純に間違っています。
さて、それでは東洋における「芸術」とは何だったのでしょうか。
いや、そもそも明治以降の翻訳語である「芸術」をもって語ること自体に無理があります。
しかし悲しいかな、(言葉をもたない)ぼくらはもう、翻訳語を通じてしか思考できなくなっています。やむなく、引き続き「芸術」概念を使います。
ここでは、東洋「芸術」史全般を持ち出す余裕がありません。そこで、日本に限定したいと思います。といって、日本「芸術」史全般を持ち出す余裕もありませんから、極端に圧縮し、結論だけ述べたいと思います。
西洋に「近代芸術」があったとするなら、日本には「道」、「道としての芸術」があった、とするのがぼくの見解です。ただし「道」とは、非常に幅の広い内容をもっています。西洋では、(実用性のある)職人仕事と(実用性のない)「芸術」とは完全に区分されます。しかし「道」というのは、「芸術」のほか職人仕事も含みます。
というと、「道」とは何か? 仏道、茶道、武士道、剣道、武道、華道・・・・・・いろいろなジャンルについてまわるものですが、一言でいうと、「その営みを通じて、己を知ること」(己事究明)でしょう。
たとえば、剣術と剣道は違います。剣術とは(一つには)敵を斬り倒す技法でしょう。剣道とは、(外にいる)敵を相手にするものではなく、(内にいる)己を相手にするものです。本当の敵は己の内側にいます。カッコつけて言うなら、剣道は相手を斬るものではなく、己(の迷い)を斬ることだ、とかいう感じでしょうか。同じことは「道」と名のつく全ジャンルに共通します。たとえば仏道(仏法)について、道元(曹洞宗の開祖)は、それは「自己をならふなり(己を知ることだ)」と明言しています。
そして、己を知ることを徹底していくと、逆説的にも、じつは「己がないこと」に気づかされます。ちなみに道元は、「自己をならふというは、自己をわするるなり」と語っています。割り切って簡単に言ってしまうと、人は己の力だけで自律的に生きているのではなく、様々な〈はたらき〉に助けられて生きている、ということでしょう。たとえば浄土真宗では、これを「他力」と言います。「自力(己)」の反対側に「他力」があるのではなく、「他力」しかないのです。ここで、己というエゴの塊が瓦解していきます。「我思う、ゆえに我あり」ではありませんが、まず先に己があり、他者や世界が後から遅れてついてくるのではなく、生きとし生けるものの世界がまず先にあり、その〈はたらき〉の中で、こちら側ではなく、あちら側から己が与えられるのです。たとえば西田幾多郎という哲学者は「物来たって我を
照らす」と言っていますが、己=我は、「他力」と共にあるのです。「自力」はない。つまり「己はない」のです。
小括しましょう。「道」とは、まずは己を徹底的に知ることを目指すものです。そして、その探求の果てに、世界との共生、に気づくことです。他者たち、生きとし生けるもの、自然・・・・・・つまり世界の〈はたらき〉と共に「己」がある、ということに気づきを得ることです。それが、「道」のゴールです。
つまり、西洋の「近代芸術」とは目指しているものが根本的に異なるのです。
というと、西洋の「近代芸術」が目指しているものではなんでしょうか。
また譬えから入ります。たとえば哲学について、アリストテレスは「驚き」から始まると言いました。「驚き」からスタートした哲学は、回答を、つまり「真理」を手にすることによって終了します。
対して、先にふれた西田幾多郎は、哲学は「悲しみ」から始まると言いました。「悲しみ」からスタートした哲学が求めるものは「真理」ではありません。西田哲学は、この世界の〈はたらき〉に「悲しみ」を看取すること、そして、さらにその「悲しみ」の裏側にまで突き抜けて、いわば「不動心」というか、絶対的な境地、「悲しみ」が転じての「優しさ」、慈悲と言いますが、そのような高次元(ないし根底)において、己を捨て、人と人との、あるいは世界との共生、を考えていくのでしょう。
簡単に言うと、客観的「真理」が問題なのではなく、いかに生きるかが、実践が、そこでは問題とされているのです。それが、「道」です。
現代は相対主義の時代と呼ばれることがあります。誰もが客観的「真理」の実在を疑うようになりました。結果、「真理」を語るとされた西洋的「近代芸術」も、「神の死」(真理の死)を経由することになり、目標を喪失、彷徨いはじめました。詳しくは『「芸術神学」批判序説』に譲りますが、「近代芸術」が「真理」を語らないのであれば、それはもう「芸術」
ではないのです。
それでも、たとえば公共劇場では、旧態依然として、「近代芸術」観に基づいた事業が展開されています。そこでは、「芸術」(が語る「真理」)にふれることで、心が豊かになる、と語られています。ここから、( )内を飛ばして、「芸術」の役割は「真理」を語ることではなく、心を豊かにすることだ、とかいう(空虚な)信念まではほんの一歩のことでした。
しかし誰もが「芸術」にふれさえすれば自動的に心が豊かになると思っているので、刺激→反応という単純な SR 理論でしか考えていないので、心が豊かになるとはいったいどのようなことを指すのか、については、まったく考えられてきませんでした。
一方、「道としての芸術」では、最初から心の豊かさが問題にされていた、とも言えるでしょう。ある意味、カベにブチ当たった(「真理」を見失い、何を目指してよいのか分からなくなった)西洋的「近代芸術」が、東洋的「道としての芸術」の方へと急旋回してきた、と見ることもできます。西洋的「近代芸術」は一周後れている、とも言えるでしょう。
もっと言うと、「道としての芸術」は、ただ単に(個人の)心の豊かさがどうの、とかいう浅薄なことを考えているのではなく、己をとことん突き詰めて知ることで、己の底を突き抜けて、世界と交わること、つまり、他者たちや、生きとし生けるもの、自然、そういったものの〈はたらき〉と共に己があること、を知ることへつなげていくこと、そこに〈真の豊かさ〉があると考えているわけです。
西洋的「近代芸術」が語る心の豊かさとは、個人の!(個人主義的)豊かさであり、そこに欠けているマインドは共生です。一方、東洋的「道として芸術」が語る心の豊かさとは、むしろ個人がないこと、己などないこと、「他力」によって生かされていることに気づくこと、個人が豊かになることではなく、「世界」の「悲しみ」と、それが転じての〈世界の豊かさ〉にふれることなのです。まったく違います。「近代芸術」は(ありもしない)「自力」の思想です。東洋的「道としての芸術」は「他力」の思想です。
さて、ここから先は3つの、それこそ道があると思います。
(1) もはや生きている化石と化した西洋的「近代芸術」観に、それでも固執すること。
(2) 「道としての芸術」という日本的文脈へ回帰すること。
(3) かつて西田幾多郎がそうしたように、西洋的なものと東洋的なものをつなぎ、高めていくこと。
公共劇場で働く身として、ぼくは(2)ではなく(3)を考えています。
これはまったく新しい試みですので、新しいネーミングをしてみましょう。
西洋的「芸術」から「芸」を、東洋的「道としての芸術」から「道」を、一字拝借しまして、「芸道」と呼ぶことにしましょう。
2.「芸道」の特徴
それでは、具体的にはどんな「芸道」事業を展開していくのがよいでしょう。
幾つかポイントがあると思います。
まず、「芸道」は普及啓発するものではない、ということです。公共劇場の役割として、広く市民に「芸術」を普及啓発する、という点がいつも挙げられています。しかしながら、これでは宗教的布教と変わりません。たとえば、西洋音楽や演劇を学ぶことが絶対的に良いことだと、無条件に前提しているから、(疑問を抱くことなく)布教活動に入れるわけです。
しかし布教される側からすると、大きなお世話というものでしょう。そもそも布教というのは「一神教的マインド(唯一神のみ正しい)」によるものです。たとえば仏道は布教しません。仏道は、ただ「門」を開くのみです。この「道」は絶対的に良い(唯一の)道だから、万人が必ず通ること、などという強制を「芸道」はしません。仏縁じゃないですが、「縁」、つまり(相手の)機が熟す、という状態を、待つのがよいのです。ただただ訪れを待つのです。
むしろ大切なことは、べつに頼まれてもいないのに「門」を出て布教に赴くことではなく、そこで学びたい、と思った人なら誰でも差別なくそこへ行けるよう、常に「門」を開いておくことです。「芸道」の入口は「門」であり、布教でも普及啓発でもアウトリーチでもありません。ただしこれは、「芸道」に従事する劇場人が劇場から外へは一歩も出ない、ということを言っているのではありません。気持ちの持ち方、マインドを指して言っているのです。
次に、スキルアップを目的とするワークショップはしない、ということです。多くの公共劇場では、たとえば演劇ワークショップなどを通じてスキルアップの支援をしています。しかし「芸道」の目的は、演技がうまくなることではありません。前述したとおり、己事究明、です。また、プロの演劇人を養成することでもありません。そういう仕事はカルチャーセンターや専門大学にでも任せておくのがよいと思います。譬えるなら、上手に坐禅することを目的とするのではありません。上手い下手は関係ない。そこで何を得るかが成否を分けるのです。自分自身と向き合うのが「芸道」であり、かつ同時に、それを通じて、他者たちと、世界と向かうのが「芸道」です。
最後に、「芸道」では、「みる」ことより、「やってみる」ことを優先します。公共劇場が用意しているプログラムは、おおむね舞台鑑賞事業ばかりです。これも譬えてみるなら、坐禅するお坊さんの姿を百万回「みる」ことよりも、一度坐ってみる、ことの方がはるかに有益だ、ということです。百万回坐禅をみても、心は豊かになりません。百万回舞台を鑑賞したとしても、そこにあるのはある種の知的満足感だけでしょう。あるいは、哲学に譬えてみるなら、デカルトがぁ、カントがぁ、ニーチェがぁ、とかアレコレ議論しているよりも、己自身が哲学することの方が、はるかに有益なのです。
小括しましょう。
(1)「芸道」は、すべての人に差別なく「門」を開く。ただし、押し売りはしない。機が熟するのを、待つ。ご縁を待つ。
(2)「芸道」は、腕前を磨くことを目的としない。それは剣術でいうところの「術」。「道」ではない。「芸道」は、つまるところ「己事究明」を目指す。そして、その答えは、各人各様にあり、「芸道」の中で自らつかむものであり、(講師に)教えてもらうものではない。
(3)「芸道」は「みる」ものではない。「やってみる」ものである。たとえば舞台鑑賞より、舞台に立ってみることを推奨する。
さて、そのような「芸道」的文化芸術事業が導くものは何か? 目標設定は何か?
平たく言ってしまえば、一人一人が「優しさ」を得ることです。己を愛し、他者を愛し、世界を愛する、そんなマインドに至ることでしょう。
そして、そのようなマインドは「公共性」の根幹であり、地域が社会として成立するための最低限の土壌です。「公共性」とは、暴力ではなく対話によって、みんなが幸せに生きられる選択肢を模索すること、ですが、対話というのはそもそも他者愛(相互承認)抜きに成立するものではありません。他者愛なしの対話は、WEB サイトや SNS でみられるような相手の尊厳に配慮しない誹謗中傷の嵐を生むだけでしょう。
健全な他者肯定(他者愛)は、健全な自己肯定(自己愛)に根ざします。自己肯定感が低く、不満ばかり抱えている人にかぎって、他者を攻撃します。自己否定は他者否定に軽々と反転していきます。まずはそんな不満ばかりの己の未熟さに気づくこと、己事究明、が抜本的な処方箋になります。
自己を愛し、他者を愛すること。健全な自己肯定と、健全な他者肯定。それが、健全な対話を可能とし、健全な対話が、地域を少しはマシな社会へ変じていくのです。
「芸道」的文化芸術事業とは、そのための道のりです。
3.「芸道」を実践する具体的事業計画
さて、次の段階として、「芸道」における具体的な事業プランを練ってみましょう。
西洋的「芸」+東洋的「道」=「芸道」
しかしこれについては、思考の整理中であり、素直に、他日を期すこととしましょう。
(了)