「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(7)
たとえばジル・ドゥルーズ(1925-95)は次のように語っている。
【一冊の本を読むには二通りの読み方がある。ひとつは本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込む立場。これだとどうしても本のシニフィエを追いもとめることになる。この場合、読み手がよこしまな心をもっていたり、堕落していたとしたら、シニフィアンの探求に乗り出すことになるだろう。そして次の本は最初の本に含まれた箱になったり、逆に最初の本を含む箱になったりするだろう。こうして注解がおこなわれ、解釈が加えられ、説明を求めて本についての本を書き、そんなことが際限なく続けられるわけだ。】
[ジル・ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、2007]
ドゥルーズが言う2種類の読書法のうち、まずは最初のものについての説明箇所を引用した。本エッセイをここまで読み進めてきた読者にとっては理解が容易であろう。
要するに、一つ目の読書法とは、「芸術神学」に基づくものだ。芸術作品という「箱」の中には「真理」が入っていると思い込んでおり、その「真理」(の影)をどこまでも追い求めていく。
しかも探求は、目の前の「箱」だけに止まらない。この「箱」は、じつはべつの「箱」の中に含まれるのではないか。要するに、影響関係などの探索に踏み出す。
もっと簡単に言うと、たとえばニーチェが書いた「箱」を前にして、「ニーチェはこう言っている」、「いや、違う、ニーチェはこう言っているのだ」とかいう「箱」の中身についての論争が、永遠に終わらない。ニーチェその人の調査にも乗り出し、交友関係、影響関係も調べていく。この「箱」は、じつはべつの「箱」の一部だ、とか、その「箱」も含めて、大きなべつの「箱」に入っていると見なせる、とか、あぁでもない、こぅでもない、とかいう「説明」(読解)が、際限なく続けられ、「箱」についての「箱」が書き足されていく。
【もうひとつの読み方では、本を小型の非意味形成機械と考える。そこで問題になるのは「これは機械だろうか。機械ならどんなふうに機能するのだろうか」と問うことだけだろう。読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないならば、もし何も伝わってこないならば、別の本にとりかかればいい。こうした異種の読書法は強度による読み方だ。つまり何かが伝わるか、伝わらないかということが問題になる。説明すべきことは何もないし、理解することも、解釈することもありはしない。電源に接続するような読み方だと考えていい。】
[前掲書:P21]
ドゥルーズの言う「非意味形成機械」という用語について気になる方は、たとえば千葉雅也『動きすぎてはいけない』(河出文庫、2017)の一読を推薦したいが、べつに難しく考える必要はない。
ドゥルーズの言うもう一つの読書法で問われることは、「箱」の中身をあれこれイジリまわすことではなく、そうではなく、明日からあなたがどう生きるか、だ。一冊の本との出会いがあなたの人生観を変えることが、ある。逆に、ただ単に読書した、という事実だけが残ることもある。あなたにとって何の印象も残らなかった本が、べつの人にとっては大きな影響を与えることも、ある。それが、出会いというものだ。
ドゥルーズは「電源に接続するような読み方」というが、ここで、「箱」と「電源」との違いには留意が必要だ。
たとえばクラシック音楽を公共劇場へ聴きに行く。ベートーヴェンにしようか。あなたは「ベートーヴェンを聴いたけど、退屈だった。寝た」と言う。劇場の支配人やら担当者やらが寄ってきて説教する。「それは、あなたがダメだからだ。こんなに素晴らしいものが理解できないとは、信じられないし、あなたは人生において損をしている」ので、たとえば「来月、ベートーヴェン講座があるので、参加してみなさい」とか、そういう話になっていく。「あなたの目は曇っているので、『箱』の中身がわからないのだ。それを、わかるように、見えるようにしてあげよう。」
これは大きなお世話、というものだ。
「箱」の中身の探索に出かけると、それはもう、境界のない砂漠を彷徨うことになる。果ては、「おまえはベートーヴェンがわかっている/わかっていない」というクダラナイ論争に一生つきあわされるか、あるいは「わかっている」者同士の共同体をつくり悦に入り、「わかっていない」人たちを見下すか、のいずれかだろう。共同体をつくる一番簡単な方法は「共通の敵」をつくることである。たとえば芸術愛好家は「芸術に理解のない一般人が多すぎる」と嘆くが、それはべつに不幸なことではなく、「芸術に理解のない一般人」がいてくれないと困るのは、むしろ芸術愛好家たちのほうである。もっと言うと、「芸術に理解のない一般人たち」という共同幻想(敵)があってこそ、芸術愛好家たちの「共同性」が延々と維持されていくことになる。じつのところ芸術愛好家たち自身の無意識的欲望が「芸術に理解のない一般人たち」を欲している、ということに気づかない限り、彼/女らは「芸術に理解のない一般人たち」を啓蒙する、という終わりなき不毛なプロジェクトに全人生を注ぎ込むことになるだろう。なぜそれが終わりがなく不毛であるかというと、「敵」をつくりだしているのは、むしろ自分たちのほうであるからだ。
「箱」の中身の探索という不毛な仕事は、べつの方々にお任せしておこう。
むしろぼくたちの生にとって求められるべきは、ドゥルーズの言う「電源に接続するような読み方」だろう。ベートーヴェンが退屈なら、それならそれでいい。べつの音楽を聴けばよいだけ。横断していけばよい。万人にとって万能な電源というものは、ない。ベートーヴェン講座に通う余計な時間があったなら、次の出会いに期待したほうがよい。もっとも、十年後、二十年後に、ベートーヴェンと出会い直したとき、そのときには、なぜかしらベートーヴェンの音楽が電源になることもあるだろう。というか、そういうことは日常あるある。若い頃に読んで感動した本も、老いて再読したらば無感動、ということもあるし、逆もある。変わったのは本ではない、あなただ。
さて、たとえば古典的大学教育の根幹が、そもそも研究者の育成にあったとするなら、あなたを「箱」の中身の探索家として仕立て上げていくことになるだろう。それはそれでよい。世の中に研究者は必要だ。
しかし、たとえば広く市民をクラシック音楽ファンに仕立て上げ、普及啓発という名のもとに、クラシック通(わかる人)を量産せんとする公共劇場もまた、似たようなことをしてきた、という自覚は求められてしかるべきだ。
公共劇場はたとえばプロの音楽家の育成機関だろうか?
違うだろう。それは音楽大学等に任せておいたほうがよい仕事だ。
『「箱」の中身の探索家』量産計画=普及啓発プロジェクト。
公共劇場は、それこそ〈近代という「箱」〉の中に入っていた。
「芸術神学」もまた、近代的あまりに近代的な思想であり、〈近代という「箱」〉の中に入っている。
そろそろ卒業したほうがよいのではないか、と思う。
《つづく》