万津人0004:木原直人
庶民の足として、船が欠かせなかった時代。
〈西海沿岸商船〉の取締役をしてます、木原です。僕の半生? 幼稚園行って、戸尾小学校行って、旭中学校、佐世保西高行って、大学行ってね。東海大学の、船舶工学科ってとこ。それで帰ってきてから、家の商売を継いだって感じ。だから、ここら辺の移り変わりは結構見てるよね。兄弟は4人兄弟で、僕は3番目。歳はもう56……いや、65やった(笑)。
この会社は、はじめは〈木原海運〉だったの。でも、いろんな競合している航路があって、それを整理するためにそれぞれ別会社を作って、会社が分かれた。それで僕の〈西海沿岸商船〉、〈崎戸商船〉、〈木原海運〉って分かれてね。じいさんの代からだから……会社は戦時中からあって……1代目、2代目、3代目ね。今、3代目。
最初の木原海運は、旅客運送と貨物運送と、両方。西彼杵半島とか、上五島の近くに、江島・平島って島があるわけ。そこの島を結ぶ航路事業。西海市は今は、〈瀬川汽船〉さんとうちやね。崎戸・江島・平島って、3つの島を結ぶから「みしま丸」って名前で、西海沿岸商船がやってる。
昔はほら、西海橋が出来てなかった頃は、針尾島の人なんかも船でこっちに卸に来てたわけ。〈琴海丸運送〉とか、船会社も結構あったみたいね。野菜とか、魚運んできたりとか。西海町や琴海町、針尾島とか、西彼杵半島の人たちとか、五島列島の人たちは、船で魚市に卸に来たり、青果市場に卸に来たり、そこの朝市で売ったりしてたわけよ。それで栄えたわけだ。
そうやって野菜が入ってくるけん、漬物屋さんが多かったよね。4軒くらいありましたよ。あと、小さな鉄工所、鍛冶屋さんっぽい鉄工所がいっぱい。塩浜の方も含めて、4軒くらいあったよね。結局、小さい漁船とかを簡単にね、ちょっと溶接とか、修理してこられる方がここは多かったと思う。
やけん、食堂も多かったよね。魚市関係とか青果市とか、船に乗るお客さん対象の食堂。吉田飯屋とかも、昔は提供時間が早かったわけよ。船に乗る時間がせまるでしょ、だから、注文しても意外とサッと、早く出てくるわけよ。提供時間が早かった。だからね、食べに行っても目途が付くわけよ、何分位で帰ってこれるって。提供時間が遅かったら、30分もかかったら、船に遅れるから困るわけ。だから食堂も多かったね。
一時は、佐世保から白浜海水浴場に、夏だけ、西肥バスとうちと何社かで、共同運航してね。昔の子供っていうのは、海水浴っていったら白浜海水浴場に行ってたわけ。佐世保湾を出で、右に曲がれば白浜海水浴場やけん。今は陸路でみんな行くからね……船に乗る機会が無くなったたい。船に乗ったら、佐世保湾の風景を見る機会があったけど、今はもう、その機会が無くなったたいね。
船を頼りにするお客さまのために。
家業を継ぐって決めてたわけじゃないけど、その頃、造船不況やったけんね。〈SSK(佐世保重工業)〉も造船不況で、就職が無かったわけよ。こおでの仕事は、もう全部。なんでもかんでも(笑)。雑用から、何から。運行管理から、何から。うちはもう、赤字航路で、やっぱり従業員を休ませるのが先で、土曜日曜は僕たちが出てね。朝早く起きて、夕方最終便出るまで仕事してるね。
船の操縦はしたことない。まあ、船に手伝いで乗ったことはあるよ。ただの甲板員なら経験はある。僕たちは魚釣りしてたから、天候とか海の怖さは、ずっと知っとるけんね。知床の観光船の事故とかあったでしょう、ああいうのは、海の怖さば知らんわけよ。実際、船に若い時に乗ったから、船の怖さとか知ってるけど、やっぱり経営者が船の天候を読めないとか、揺れでこう、傾きとか叩かれたりするってのを知らんとね、ちょっと無理がいくと思うよ。やっぱりね、多忙期にね、船が欠航されたら、会社としては困るたい。だけど僕たちは事故とか、いろんな怪我したこと……大きな事故は無いよ。でも、大なり小なりあるからね。事故処理が大変なの知ってるけん、もう無理するなって、もうやめろやめろ、運航やめろって言うね。
もうね、どの航路でも、要介護と思われるお客さまが、一人で乗ってくるわけよ。そのお世話がね……これはほんと、社会問題よ。一番困るのは、最終便で向こうに着いたり、こっち着いたりすると、もう待合所が閉まってるわけよ。じゃ、その後どうすんのよ、って。お年寄りとか。でね、車椅子でさ、浮き桟橋があるでしょ、潮の引いた時に車椅子に乗せて、待合所まで連れて行くってったら……もう一人じゃ無理。怖い。めちゃめちゃ怖い。
だから、もうタクシー呼んだ方が早いわけよ。船の横まで付けていいですから、って、タクシー入れますよ、って。そういうアナウンスはしてます。でもそれが出来るとこと、出来ないとこがあるわけよね。うちはもう、そこらへんも見越してるから、タクシーとか救急車が桟橋、船の横まで入れるような桟橋の構造にしてるわけ。高さも3.8mで、バスも潮の関係で入れないこともあるけど、出来る限り雨で濡れないように、団体客の乗り降りができるようにね。でも、こういう状況がどんどん増えよるし、介護の度合いよっては社会福祉協議会の方が付いてくれる制度もあるけど、そこまでは行かないレベルだと、うちなり、面倒見のいいタクシードライバーの方なりがお世話してね。離島はどんどん高齢化してるし、これは社会問題って思う。
港町ならではの風景。
万津のよかところねぇ。昔まだ、港がこっちにあった時、「ああ、今船着いたね」って見えるけん、人の流れができよったわけよ。もう僕たちは仕事柄、汽笛で時間がわかるたい。船の時間、覚えてるから。僕たちは大体汽笛の音で、ああ、あの船の出よるばいね、今何時やったばいね、とかね。港町ならではたいね。
あと、佐世保はやっぱり米軍と自衛隊ね、やっぱウェルカムたい。やっぱそういう仕事で成り立っとるけんね。だから、僕たちの世代からは、人種差別っていうとはあんまりなかったね。上の代は、親の世代はあったかもやけど、韓国人とかそういうのに対する、例えばベトナム難民が一時来たりとか、フィリピンの人が出稼ぎに来たとか、僕たちの頃は戦後やけん、中学の同級生にハーフのおったね。それもほぼ黒人のハーフもおったけど、仲良っかったたい。差別とか無かったって。でも本人はコンプレックス持ってるわけ。でも、僕たちの世代は、意外と人種差別っていうのは感じることは無かった。だからアメリカでああいう人種差別があったっていう感覚がわかんない。
ここはたくさんの多国籍の人、貨物船が入ってきたり、接する機会は多かよね。で、今はほら、米軍関係者の出入りすればさ、そこの店は流行るたい。外人だらけになるたい。ラーメンなんか、特にね。一時期ほんと、万津の店のカウンターが全部外人とかさ、ラーメンとコーラ飲むのが流行るとさ。今、〈cafe.5〉なんかも外人さん増えてね、だからやっぱそういう外人さんとの関わりも多いね、つながりも。
そういう外人、アメリカ人と接する機会があるから、そこらへんも上手くね。英語教育とか、英語の学習を上手く、米軍関係者としたら良いと思うけどね。僕たちはさ、英語そがん得意じゃないけど、英語喋ることに対して違和感がなかたいね。もう昔から外人ね、そんじょそこらにおるし。一回、桟橋で僕がきっぷ売りよったら米軍関係者から尋ねられて、「ガッテンバ、ガッテンバ」っていうとさね。聞き取れんけん書いてっていうと、「御殿場」に行きたかって。御殿場に演習場があるわけよ。そこに行きたかって言うて、あの人たちは「ガッテンバ」って発音するのよ、御殿場ば(笑)。そんなこともあったね、そこらへんは佐世保ならではよね。
年取ってからの楽しみがある町じゃなからんば。
万津も寂れていくばっかいかな、って思ったら、どこが始めたか知らんけど、飲食関係が増えたたい。おたくの〈RE PORT〉もね。あと五番街とか、うちのビルにも新しいパン屋さん入ったけど、そういう飲食関係の店が出来て、おしゃれな店が増えて、「万津6区」もそうだけど、結構、若い人が通る流れが出来たよね、土曜日曜はね。そいは、よかことたいね。
もう、年寄りの孤独死とかさ、これもう、ほんとに真剣に考えんば。このへんマンション出来て、少しは子供の増えたとやもんね。僕たちの頃がいっちばんね、商売人ばっかりで、家はこっちに無くて、子供のおらん時代やった。うちの学年までなんとか、町別リレーは1年生から6年生まで、女の子男の子揃えたけど、下の学年からね、おらんかったから。
やっぱり、年取ってからの楽しみがあるような町じゃなからんばダメよね。その点、万津町は餅つきとか、バーベキューとかしてね。結構、お年寄りも来よったもんね。ただコロナでね、もう2年、中止になっとるけど。僕が昔、餅つきとかもうやめましょうかって言うたら、お年寄りたちが「冗談じゃなか、私たち楽しみにしとっけん、ダメ!」って言われてね(笑)。それで続けたよ。だから万津町はその点ね、敬老会もちゃんとやってるし、そういう楽しみもね、少しはあるたい。
だから町内会の意味っていうのは、やっぱり地元の人といかに親しくしたり……昔ながらのつながりが、もうなかたい。でもまだ、僕たちの頃まではあるたいね。僕たちは昔からここに居座っとっけんね、やっぱり地元のおじいちゃんおばあちゃんとか知っとるし、そういうのは出来るたいね。
取材・文:松本 拓馬(長崎県立大学)
写真:永田 崚(tajuramozoph)
編集:はしもとゆうき(kumam)