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あなたが困った時に「ルポルタージュ」が役に立つ(第1回)

はじめに

――事実(ファクト)の見極め方――
 

今や公害と化した
「情報汚染」の現状


 
 大気汚染や水質汚濁といった環境汚染が「公害」として社会問題化したように、今、「事実」が汚染され、危機に瀕しています。「事実だ」とされていた話の中に、嘘が紛れ込んでいたのです。

 国土交通省が、国のGDP(国内総生産)算出に使う重要な統計データ(「基幹統計」データ)を意図的に書き換え、GDPが実際よりも過大になるよう捏造していたことが明らかになりました。データの捏造は組織ぐるみでやっていたことも判明しています。手書きの調査票を消しゴムで消して書き換えていたというのです。調査票の原本はすでに破棄されていたため、GDPを再計算することができませんでした。その結果、国の統計への信頼を揺るがす事態となります。

 こうした捏造行為は、安倍晋三元首相の政策「アベノミクス」の成果を数兆円単位で水増ししていたことにつながります。統計不正は「アベノミクス」政策が始まった後に始まり、安倍政権の退陣とともに終わっていました。こうした不正を炙り出す端緒には、朝日新聞の調査報道がありました。
 厚生労働省も、働く人の賃金などを調査した基幹統計「毎月勤労統計調査」の数字を書き換えていました。データをグラフにした時、滑らかにつながっていない〝段差〟ができてしまったことで、不正が発覚したのだといいます。通常であれば、国全体の統計グラフに〝段差〟ができることなど、あり得ないからです。

 安倍政権時代には、「桜を見る会」を巡る一連の疑惑も発生しています。疑惑が発覚すると、「桜を見る会」の招待者名簿が破棄され、会の前夜にあった夕食会を巡る安倍氏の虚偽答弁は118回にも及んだとされます。噓がまかりとおるばかりでなく、自らにとって都合の悪い事実や証拠を隠蔽し、改竄までする手口により、不正や犯罪行為がうやむやにされ、政権の延命を助けてきました。一国の首相が事実を蔑ろにしても許されてしまっているのですから、これでは日本国民のモラル(倫理や道徳意識)が崩壊してしまいます。

 首相時代の安倍晋三氏は、そんな自分の所業を棚に上げ、政敵や自分を批判する者に対しては舌鋒鋭く批判することを繰り返していました。それを〝悪いお手本〟にしたのか、一般庶民やその子どもたちも、事実に基づかない嘘ニュース(フェイクニュース)を、インターネットでまき散らしています。「自分の行動は正しい」と思いながら。

 2017年に神奈川県の東名高速道路上で起きた、煽り運転による死亡事故を巡っては、煽り運転をした加害者の姓と同じ姓が含まれていた北九州市の建設会社に対し、加害者の勤務先であるとか、加害者の親だといった事実無根のデマ情報がインターネット上に氾濫し、事故とは無関係の建設会社に嫌がらせの電話が殺到して、業務が妨害されるという事件が起きています。
 2019年には、茨城県の常磐自動車道で起きた煽り運転殴打事件を巡り、事件と無関係の女性が、実名や顔写真をインターネット上に曝されて犯人扱いされる「濡れ衣リンチ」事件も発生しています。

 インターネットに流れる情報を「川」に例えるなら、きれいな水とともに、汚物やゴミ、そして悪意を持った人間が流した毒物も一緒に流れている汚水を、知らずにありがたがって飲んでいるようなものです。体を壊すのが当たり前です。汚水なら、煮沸や蒸留、濾過をすれば飲めるようになりますが、「情報汚染」はそうはいきません。

 インターネット情報に接したおかげで、情緒不安定になったり、気分が悪くなったり、鬱病になったり、暴力事件や器物破損事件、殺人事件を起こしたり、自殺をする人が現れています。すでにこの時点で、「情報汚染」は公害と同じような社会問題と化している――と言えるのではないでしょうか。
 間違った「事実」や、嘘が混じった「事実」は、人々の判断を誤らせ、最悪の場合、死に至らせることもあります。一方、嘘のない事実は、正しい判断をするための根拠となり、判断する上での自信にもつながり、身に迫る危険を回避するための強力な〝武器〟としても役立ちます。

 つまり、噓や誇張のない正確な事実は、私たちが生きていくために不可欠な、きれいな空気や水と同じくらい、命に係わる大事なものなのです。
 

事実の集め方


 
 では、何が「事実」だと言えるのでしょうか。

 新聞記事や雑誌記事、テレビニュースは、事実をもとにつくられています。記事に載っている情報は、基本的に「事実」だけだと言いたいところですが、まれに不確かな情報や、間違った情報が、記事の中に紛れ込むこともあります。その具体例が、次回以降の当連載で取り上げる2つの事件(NHKBS1映像ルポドキュメント「河瀬直美が見つめた東京五輪」字幕誤報事件と、中日新聞「新貧乏物語」記事捏造事件)です。

 私がこれまで書いてきたルポルタージュ(現地報告、現場報告という意味のフランス語。「ルポ」と略称されます)のテーマは、自分で考えたり、思いついたりする場合もありますし、いわゆる「タレコミ」が端緒となる場合もあります。また、編集者からテーマを与えられて、取材を開始することもあります。

 記事を書く際や、物事を分析する際には、そのテーマに即し、関係している事実をコツコツと拾い集めていくわけですが、新聞記事などは、他人が集めた情報に基づいて編まれた「2次情報」です。インターネット情報もこれに当たるでしょう。それを検証することなしに鵜呑みにして作文を書いているだけでは、もちろんルポになりません。

 これに対し、事件の当事者や、目撃者などを自ら直接取材し、その結果、得られた情報は「1次情報」になります。1次情報も2次情報も、どちらも記事を書く上で重要な情報ですが、これを天秤にかけた場合、情報の価値や信用度、信頼度は「1次情報」のほうがはるかに勝っています。「1次情報」はあなたが足で稼いだものであり、それには、あなたの目と耳と鼻といった五感で得た情報までが含まれているからです。それにその情報は、まだ誰も知らない話かもしれません。

 その取材の際、あなたが取材対象の人から嘘をつかれてしまうと、情報の価値や信用度はいきなり半減(あるいは消滅)してしまうのですが、それだけに取材記者には、嘘や勘違いが含まれている話を聞いたとしても、相手の目や表情を見ながら、繰り返し訊ねるなどして間違いを糺(ただ)し、嘘があれば見破ることもできるスキル(技能)が求められるのです。取材記者ならば、失敗も含めたキャリアをコツコツと積み重ねながら、腕を磨き続けていくほかありません。

 私の書いたルポは、記事発表時には大見出しのタイトルがつき、派手な広告が打たれることもあったのですが、どれだけ記事内容が派手であっても、取材活動はいつも至って地味な作業の連続であり、その積み重ねでした。

 楽をして大ネタを掴むことなど、あり得ないことだ――と思っていただいて間違いありません。手間をかけずに書いた記事が、世の中を動かしたり、世直しにつながったりすることもまず、ないでしょう。

 記事が説得力を持つためには、どれだけ面倒であっても事実の確認作業を惜しまず行ない、どれだけ目を引く話であっても確証が得られなければ記事には載せず、間違いのない事実だけで描いていくことが鉄則であり、その結果、事件や社会問題の本質やその正体が浮かび上がってくるのです。
 

「裏を取る」ということ


 
 記事には読者がいます。当たり前のことですが、その読者を軽んじ、事実の確認作業を怠り、舐めてかかると、舐めてかかった記者自身が自分の書いた記事によって、手痛いしっぺ返しを受けることになります。

 事実の確認作業が足りず、誤った情報を含んだ記事を書いてしまったことが、私も駆け出しの頃に一度だけあります。今思えば、実に詰めの甘い記事でした。その時、記者になったばかりの私は、早くも記者を辞めようと思うほど後悔しました。記者は、書いた記事だけで勝負するほかなく、記事に盛り込まなかった事情など、読者に伝わるわけがないからです。

 落ち込む私に担当編集者さんは、
「3日間だけしっかりと落ち込め。その上で、これからも記事を書け」
 と叱り、慰めてくれたのでした。
         *
 その話が事実であると断定するためには、確かな証拠(確証)が必要です。その作業のことを、マスコミ業界用語で「裏を取る」(裏付けを取る)と言います。

 かつて、ある新聞社系週刊誌の忘年会の席で、初対面だった編集者から、
「明石さんの書く記事は、いつも断定調で書かれているけど、僕らは怖くてとてもできない。つい、語尾に『~の恐れがある』とか『~の可能性が高い』とかつけてしまう。明石さんはなぜ断定調で書くんですか?」
 と言われたことがありました。

 断定できるだけの確証がなければ、断定調で書くことはできません。これは記者の取材力や分析能力にも関わる話です。

 業界が組織を挙げて抗議してくることもある「原発」をテーマにした調査報道では、議論の土台として使うデータに、政府機関が発表したもの、例えば各省庁がまとめた統計データや、法律に基づき集められたデータなどを採用します。公開されているデータですので、私が恣意的に手を加えることはできませんし、原子力ムラの皆さんが恣意的に手を加えることもできないからです。その上で、独自調査の結果を加味したり、その分野に詳しい科学者たちの意見や分析を聞いたりしながら、記事をまとめていきます。

 初めて扱うテーマの時は、その分野における最高峰の実績のある専門家や科学者に協力をお願いし、場合によってはその先生方から〝個人授業〟を受けることもありました。「日本で5本の指に入る、その筋の専門家」といった方々です。これは、記者以外の一般の人であればなかなかできないことで、マスメディアで書くことを前提としてお会いすることになる記者ならではの〝役得〟と言えるかもしれません。

 たとえ価値ある1次情報が寄せられたとしても、それをそのまま記事にすることはしません。情報提供者のコメントとして、カギ括弧つきの話にするとしても、です。その話の中に、情報提供者が勘違いしている話が紛れ込んでいれば、悪意の有無に関わらず、記事にしたことでその情報提供者に迷惑が及ぶことがあるからです。

 もちろん、情報提供者に無断でコメント内容を変えたりはせず、相談しながら間違いや勘違いのないコメントに修正し、情報提供者さんの了承を得た上で、記事に載せます。寄せられた1次情報の分野に関し、記者にある程度の予備知識があれば、コメントに含まれている間違いや勘違いを事前にチェックし、誤った情報が報じられることを未然に防ぐこともできるでしょう。

 そのコメントがセンシティブな(取り扱いに細心の注意を要する)内容を含んでいれば、コメント内容にも確証を求め、場合によってはそのためだけに追加の取材をすることもあります。確証が得られなければ、せっかくの情報提供であっても記事に盛り込むことは見送ります。

 こうした作業が、報道記事を書く上で最低限しなければならないことであり、それを怠ると誤報につながるのです。

 最近の報道では、著名人がSNSで発信したコメントをそのまま「ニュース」にしている例をよく見かけます。極端なケースでは、そのコメントを紹介しただけで終わる「ニュース」もあります。SNSでのコメントそのものが「ニュース」になると記者が思ったのなら、なぜその本人を取材しないまま記事にしてしまうのでしょうか。その本人の公式アカウントから発信されたコメントなら、取材をしないで断りもなく転載しても許されるというルールでもあるのでしょうか。もし、そのSNSでのコメントに間違いや勘違いが含まれていたら、それはすべて、SNSで発言した著名人さんだけが悪いことになるのでしょうか。当人から取材拒否でもされない限り、取材した上で記事にしたほうがいいのは論を俟たないでしょう。

 著名人のSNSを日々チェックすることが「取材」だとはとても思えないのですが、そうした安直なニュース記事を〝悪いお手本〟にして、真似をしたのが、昨今SNSを騒がしている「名誉棄損ツイート」や「個人攻撃ツイート」「濡れ衣リンチ」事件なのだと思います。

 参考までに、私が考える「事実(ファクト)を見極めるための鉄則」を、箇条書きにして書き出しておきます。
 
・情報の発信者に、直接会って話を聞く。
 
・「5W1H」(いつ、どこで、誰が、何を、どのように、どうした)を確認する。
 
・事実の確認作業や「裏取り」作業では、手を抜かない。
 
・予想や仮説は多くの場合、取材現場で否定されるものだ。取材現場ではあくまでもニュートラルな(いずれの立場にも片寄らない)姿勢に徹し、事実と「予想」「仮説」は明確に区別して、取材開始当初の思い込みに引きずられることなく、いつでも潔く撤回する覚悟をしておく。
                              (続く)
 

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