KとJ:<子どもっぽさ>に対する緊張感
K-POPにハマっていった理由はいろいろありますが、そのひとつに、日本と違い「大人っぽさ」への引力が強く、「子どもっぽさ」というものに対する距離感とか、緊張感のようなものが強い点があります。
ふりかえってみて、あらためて印象的に感じるのはGirl's DayとSHINee。
ごるでについては、なんといっても一躍トップアイドルへと駆け上がるきっかけとなった「セクシー路線」への転換が挙げられると思います。
もともと…
こんなんやら…
こんなんで、日本のサブカル的な雰囲気にもフィットするような、「幼さ」を軸にしたビジュアル。実際、当初は日本のKぽファンのなかでちょいちょい人気があって韓国ではマイナーというような状況だったのが…
ほいきた!殿下の宝刀ぼでこん!!だの…
う~う~うう~う~う!!だの…
…失礼しました。
すりっとでふとももば~ん!!だの…
…と、「大人っぽさ」全開にして、いまの地位へと上り詰めました。デビューから1位達成までの日数が1094日と、他の追随を許さない(実はEXIDがそれに近い1058らしいのですが)苦労人ぷりのごるでですが、起死回生となったのが「大人っぽさ」への転換であることは間違いないでしょう。
単にメンバーの実年齢が上がったので、こうした形にできるようになったともいえますが、「アイドル=幼い感じ」というイメージの強い(少なくとも平成の)日本では、ありえない展開だと思います(註1)。
ごるでがごりごりと売り出している頃は、やや過激なファンイベントなどでだいぶ無理もしていた感じもあり、本人たち大丈夫かな?という不安も感じましたが、基本的な考え方としては「子どもっぽさ」よりも「大人っぽさ」を求める価値観を本人たちも持っていたように感じます。やっと大人っぽい恰好ができる、と。
以前、少女時代で、末っ子のソヒョンが「ケロロ軍曹」好きというのを、姉たちが「子どもだねえ」とからかっている様子がテレビ番組で見られました。この短いやりとりから、「アニメ好き」ということ自体が「子どもっぽい」ことであり、そうした「子どもっぽい」趣向は大人になったら当然捨てなければいけないもの、という規範が成立している様子が伺え、とても興味深く感じました。
かつては、日本社会でも「子どもっぽさ」は同じように忌避されたりからかわれたりするものであり、中学生にもなってアニメをみていたら「子ども」もしくは「オタク」として、劣位の存在として扱われていたように思います(1990年前後の話し、つまり昭和から平成への変わり目です)。
そうした「子どもっぽい」表象に対する距離感ないし緊張感の両国での違いは、日本デビューをはたしたKドルを追っていても感じます。
こんなんやら…
こんなコンセプチュアルなアートワークの畳みかけ(それも「ミスコンセプション」なるコンセプト!!!)で、本国を中心にぶいぶいいわせていたおしゃいにさんが日本では…
きらきら~☆彡となったりその後も…
ふわふわ~な、愛らしい「ボーイ」の季節。
この違いについては、いろいろと味わい深~いところですが、端的にいって「大人っぽさ」と「子どもっぽさ」のどちらに引っ張られやすいか、なのだと思います。
K=「大人っぽさ」>「子どもっぽさ」
J=「大人っぽさ」<「子どもっぽさ」
このように見ていくと、今の日本はだいぶ「子どもっぽさ」に対する緊張感が弱く(引力が強く)、下手をすると「底が抜けた」状態にあるのかなと思います。
以下、推測の話しになりますが、ある時期までは日本でも「子どもっぽさ」が、「いまここにある(大人の)社会に対する抵抗」として位置づけられていたのだけれども、徐々に日本社会そのものが「子どもっぽさ」を受け入れ、「子どもっぽくて問題ないし、むしろ大人っぽくなる事自体が「オワタ」状態」と考える空気が濃厚になってきたのじゃないかな、と感じます。恐らくその転換は、90年年代~00年代の失われた20年をかけてゆっくりと進んできた…(註2)。
そんな目でみると、Drip Drop(や一部Press YourNumber)を強く意識したと思われる、テミンの日本制作のMVも、ヒーローものなどの「子どもっぽい」コンテンツの延長にある「カッコよさ」なのであって、その点が「大人っぽいカッコよさ」をもつDrip Dropとの決定的な違いだということがわかってきます。
完ぺきなる美しきフィクションとして、現実社会での「成長」とは無縁の「セカイ」のなかで美しく舞い歌うテミンと…
同じく完ぺきなフィクションの世界ではありながらも、日々の努力やダンサーとの切磋琢磨といった、現実社会での生々しい「成長」を端々に感じさせる태민…
DDD(アルバム、MV全体を通して)でもぼんやりと感じていたことですが、日本制作サイドがSHINeeに対して本気を出してカネと才能と技術をつぎ込み、クオリティを上げれば上げるほど、そうした日本の文化状況が浮き彫りになってきたように思います。
もともとSHINeeは、「ぬなのむいぇっぽ~」と少年の無垢な可愛らしさとか美しさをもった、言ってみれば「ショタ」的な「子どもっぽい」表象の強いアイドルグループですが、それでも年数を経るなかで「大人らしさ」が濃厚になってくる。それは上で見たごるでと基本は同じです。
(まあでも、音楽は最初から十分に大人っぽいですね…ヌナがトロんとトロけちゃう程度に…)
韓国は「子どもっぽさ」に対する緊張感がとても強く、「アイドルは子どもっぽい趣味」とされており「大人になるとファン卒業」という感覚が根強いからこそ、逆に、表現として「大人っぽさ」が目指されるという逆説が生じる、ということなのかもしれません。また、それ故に、「子どもっぽさ」がある種の「抵抗」としての意味を持つのであって、ソルリのような「わがまま」な存在や、子どもっぽさ全開の日本のサブカルが、一定の青年層に熱い支持を受ける、と。
このように、もし韓国で「子どもっぽさ」が文化的オルタナティブ(かつ社会への抵抗の拠点)になりうるのだとすれば、逆に今の日本は「大人っぽさ」が文化的オルタナティブ(かつ社会への抵抗の拠点)になるという、なんとも奇妙な状況にあるのかもしれません。
日本のK-POPファンの一部は、日本にはない(失われた)「子どもっぽさ」に対する緊張感や距離感を好んでいるのではないかと思います。
註1:いうまでもないことですが、日本のアイドルにセクシー化はありえない、という意味ではなく、セクシー化によってぐいぐいとトップアイドルに駆け上がる、という展開のことを指しています。
註2:宮台真司さんが90年代に女子高生「コギャル」の生態を観察し、これを「まったり革命」と名づけ、彼女たちを新しい社会に適応的な存在として評しましたが、00年代にこの考えを撤回します。宮台さんは「大人っぽい/子どもっぽい」という本稿のような雑な図式で物事を語ることはしていないのですが、彼の考えの変化には「やっぱちゃんと大人になんないとだめじゃんよ」という想いがあるように思えます。
日本では80年代までは歌謡曲という枠組みのなかで「大人の歌」が大いにヒットしていました。良いかどうかは別としても、不倫の歌だの、バーで酔ったゆきずりの男女の掛け合いの歌だの…。もうちょっと「若者」向けの音楽にしても、「OLの教祖」なんて言葉が、ユーミン、中島みゆきにはじまり、90年代にも古内東子などが引き継いでいました。ヒット曲はOL=社会人のリアリティに準拠していた、ということです。しかし90年代のJ-POPの時代になり、永遠のお子ちゃま小室哲哉の時代へ突入。全体として楽曲の持つ精神年齢(?)が低くなったように思います。もちろん80年代までにも若さを押し出したヒット曲もありましたが、それはあくまで「大人」との緊張関係にありまし、「お子ちゃまはアニメでも見てなさい」という感覚もあったように思います。その感覚が90年代以降に薄れ、「大人の世界=昭和の遺物」となり、いまやその牙城であった「NHK歌謡コンサート」もなくなり、「アニソン的なるもの」がデフォルト化して現在に至ります。
現在の韓国も、大きい流れとしては、それとあまり変わらない状況にあると思いますが、それでも「大人っぽさ」への志向、「子どもっぽさ」への緊張感が強く見られるのは、とても興味深いことです。