ブラインドタッチは人生を変えない。
今日の昼下がりの午後、パソコンの作業をしていると、なぜかフッと思い出した。
昔の自分、たぶん10年以上前の自分は、「ブラインドタッチ」ができる人のことを、とてもカッコよく、憧れの眼差しで見ていた。
キーボードは見ずに、スクリーン画面を見ながら、カタカタカタカタと、一定の素早く心地よいビートを刻んでいる。
そして、ときどき緩急をつけながらタイピングをする様は、まるでクラシックのソナタを奏でているピアニストを見るような感覚で、その指先は光り輝いているようにすら見えた。
なんと! ときにはタイピング中に誰かに話しかけられたにも関わらず、顔を上げ、会話をしながらタイピングを “止めない” ことすらある。
左脳では人との会話を、
右脳ではタイピングすべき文章構成を組み立て、パソコンに書き起こしていく。
そんな聖徳太子をも凌駕する人間離れした神技を目にした日には、
三分の一の純情な尊敬と、
三分の一の羨ましい感情と
三分の一の選ばれた者だけが、絶え間ない努力の先に習得できるその途方も無い大海の果てにある ”あっち側の世界” に対する自分の現在地を思い知らされた絶望の淵で、自己嫌悪に僕は膝を抱えた。
ブラインドタッチができる人生は、
「マルチタスク的に仕事をバリバリとこなすことができて、異性からも同性からもモテモテなのだろうな」
それができたらどんなに優越なのかと、他人事の世界を漠然と妄想することしかできなかった。
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先日、仕事におけるクライアントさんに
「高橋さん、ブラインドタッチができるのですね!」
と、小さい頃から長年憧れていた芸能人に出会ったかのような尊敬の眼差しで言われた。
そして翌週には、また別の方に、
「高橋さん、タイピングが、すごくお速いのですね」
なんて、まるで『このあと夜は空いていますか?』 と遠回しに誘われているかのような口調で褒めていただいた。
まぁ、それは完全に冗談なのだが(言われた言葉は本当です)
必要なときはクライアントさんと対話しながらタイピングでメモをする。
ときには話を聞きながら一方で、自分なりの意見をほぼ同時進行で付け加えていく。
ブラインドタッチを褒められたときは、
「一応できるんですよね。ありがとうございます^^」
と、笑顔で応える反面、
「パソコンはいつも使っているのだからできて普通だしなぁ」
と、心の僕はつぶやくのである。
ブラインドタッチができる。
憧れてた、あっち側の世界
ブラインドタッチができるようになった今。その指先は光り輝いてもいないし、神技どころか、果たしてそれを技と呼べるのかすら怪しい。
なんなら昔、憧れていたことすら忘れていた始末なのだ。
断言できるが、ブラインドタッチができても特別モテることはありません!
仕事をしていくにつれて、気づいたらできるようになっていたけれど、
いざできるようになると、「こんなもんか〜」といった具合なのです。
雷に打たれて、憧れていた人間と入れ替わったが、思っていたのと違う。そんな王道のドラマのようにね。
それでも思う。ブラインドタッチができないよりは、断然できた方がいい。
今の時代、ブラインドタッチができたとしても、それそのものがモテる要素にはならないが、
ブラインドタッチができるようになるための人生における過程を築いてきた自分は、もしかしたらときに誰かにとって魅力的に映るときがあるのかもしれない。
果たして、キーボードを見なくてもタイピングができるようになるために、何万語、何十万後、何百万後の文字を僕たちはタイピングしてきたのであろうか。
そう。一日何時間もパソコンの画面と対峙し、背中を丸め、A〜Zまでが不規則に並ぶその漆黒に輝く文字盤を、汗の滲む指先で打ち込んできたのである。
文字だけで状況を伝えなければならないという制限された厳しい条件下の元、
それでも、少しでも伝えたいことがあるから。伝えるべきことがあるから……
タイピングしてきた数が、あなたの軌跡だ。
ブラインドタッチができるあなたは、奇跡だ。
今日も、世界中のパソコンの向こう側にいる誰かのために、
そして、パソコンの目の前に座っている自分自身のために、
僕たちはキーボードを叩き続ける。
これから訪れる未来、大海の先にある “あっち側の世界” を目指して……
終わり。