お盆
帰省
久しぶりに地元の山梨に帰省した。
コロナ禍となってから、Twitterでは住民から嫌がらせを受けたなどとTLで目にしていたが、幸い私の回りでは全くそういうことはなかったので良かった。そんな投稿を見ながら、コロナ禍によってさまざまな問題点が現れたが、人間の卑しさもまた現れたのだなと思っていた。
帰路
年に多くても2,3回くらい実家には帰るのだが、今年はその1回目だ。東京から山梨に帰るまでの間はだいぶ時間があるので、だいたいその時気になっている本を読みながら電車に乗っている。今回は「倫理学入門-アリストテレスから生殖技術、AIまで」 を読んでいた。Twitterではこの本の写真と一緒にヒューマンステージを上げるなどと、つぶやいてふざけてはいたが、決してそれをやりたいがために購入したわけではない。昨今パワハラやセクハラなど様々な倫理に欠けるニュースを見ながら、こういうことは数十年前からあって表に出てこなかっただけなのだろうと思っていた。倫理的なふるまいとはどういうことなのだろうと思ったのがきっかけだ。昨今のニュースであげられる人間性としては、倫理学の本を読みながら痴漢しているみたいなものなのだろう。そんなことを思いながら、ガラガラの電車内で一人ヒューマンステージを上げていたのであった。
帰着
実家に着いてから買い物に行くということで付き添いとして車で出かけた。親はきっと気を利かせてくれたのだろうか、少し遠めのスーパーへと向かった。道なりはずっと360度山に囲われるような場所を窓を開けて眺めているだけなのだが、それを見て安心している自分がいた。
今まで帰省した際には、空気が吸いやすいなとか星が見えすぎるなとか感じることは多々あったのだが、今回はなにかほっとしたというか、肩の荷が下りたような気がした。もちろん何も背負っている訳ではないし、重大な問題を抱えてたわけでもない。ただここ数年仕事についての事しか考えていなかったなと気づかされた。
山の壮大さを眺めながら、そのスケールや匂い、色などの複雑さを肌で感じていると、自分が考えていることがなにやらすごくちっぽけに、またくだらないようなことに思えてきた。
仕事をするというのはどこまでもビジネスであり、数字を気にしながら生きざるを得ない。社会的になにかこうした方がいいということがあっても、数字が上手く回らなければ実現もしないのが実際のところだ。それをどうにかこうにか上手くやれる方法はないかと考えるわけだけども、いつの間にかどうやって金を稼ぐか?という思考にすり替わっていく。それが悪いとは思わないし、ビジネスというのはそいうものだということはよくわかっているつもりであるが、ただそれだけでは自分は納得できないというようなそのくらいのものだ。
そんな風に考えながらある一定の距離を空けながらも日々過ごしていたはずだったのだが、山をじっと眺めるその時まで、なんのために自分が仕事をしているのかという問いかけを失っていた気がした。
おそらくこれからもこういうことは何度もあるのだろうと思う。
それは経験上よくわかる。今回と同じように忘れたころ、同じようなことではっとさせられるのだろう。
それでも山を眺めれば自分の位置を見直し、大きく不本意な場所に行ってしまうことはないだろうなと壮大な景色の中で思うのだった。
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