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『障害者殺しの思想』を今思い起こして
昨年2024年12月、福岡療育支援センター「いちばん星」古賀の建物を借りて「子どもホスピス 仮施設 よかよかのおうち」が週末限定でオープンをしました。
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とご家族の姿です。
私のつれあいも所属した東区の障害児の訪問介護事業所も在宅介護で今も関わらせていただいています。
私自身も前々職の介護事業所で障害児者(私はあえてこういう「表記」を使います)の訪問もさせていただき自宅のすぐご近所の医療的ケア児の在宅にも十数年近く前からお伺いしたりしておりました。
そのご縁で「子どもホスピスプロジェクト」にも場所探しや資金集めの運動に協力させていただいておりました。
このような経緯から今回のことについて、感じたことを書いてみます。
1、在宅にご家族でと共に生きる障害児への行政の「光」は大変希薄で、心許ないこと
基幹支援センターなどの組織もあり、利用される方々も多いです。しかし、総合的に、高齢者でいえば、高齢者における「看護小規模多機能」のような施設はありません。「子どもホスピス」は地域での家族の交流とレスパイト、医療が必要な障害児自身の「育ちと学び」の「共生」の場であり、ピアカウンセリングの場です。
でもそのような中核となる場は地域に少なく、「子どもホスピス」は九州初と言われています。これでは家族が孤立しても、そこに辿りつけません。
2、障害児の場合、在宅の現場でも、福祉用具貸与のような制度もなく道具も大人用であったり、電動車椅子も年齢制限が高く、地域で自立した生活を行える制度的支援は十分ではありません。これはサービスについても同様ではないでしょうか。
3、結果、家族、特に母(父)の負担・献身が求められます。訪問介護も「標準化」されたものは少なく、経験的な判断や献身が求められることも多く、長時間のケアや早朝、深夜、緊急の対応などが求められ、賃金・労働条件・腰痛などの職業病の不可避化の実態はそれに見合ったものになっていません。
障害児の母(父)が老いた時、病んだ時、心が折れた時に、家族が不和になった時にどのように支援が可能か、本当に大事な問題です。
4、ある医師は「これはこの母親、障害を持つ子供、の問題ではなく、コミュニティの問題と考えた」とおっしゃっておられます。おっしゃる通りだと思いました。きめ細かく、誰でも辿りつける、手を差し伸ばすことのできる場、繋がりが、もっと早くできないのかと思います。
5、長くなりました。
最後に。私は1970年代中盤に学生生活を送りました。最初に出会ったのは、施設障害者が地域に住む自立生活運動・障害者解放運動でした。
「青い芝」という団体を結成した横田弘さん、横塚晃一さんの始めた運動で、各地で「蜂起」のように障害者の運動と在宅生活が始まりました。私は学生を6年間し、その後も九州に移住するまでは介護者としてその運動に関わりました。
横田弘さんの著作に「障害者殺しの思想」という本があります。横塚晃一さんにも「母よ殺すな」という本があります。今も読めます。
当時の状況として「脳性マヒ」の障害者である当事者たちは同じ境遇の障害者の子を道連れに親が心中を図り、命を取り留めた親への減刑嘆願や無罪判決に異を唱え、養護学校義務
化にも異を唱え、普通学校に通う取り組みを行い、優生保護法による不当な手術、ロボトミーによる人体実験を告発していました。
私が文字通り寝食を共にした障害者たちも同じことを語り、たたかいました。今はもう故人となられた方が多いですが、その命を賭け、削った生き方は、19歳だった私に、人の生きるとは何かの全てを教えてもらったと今も思っています。
今回のことの報に接し、「宙吊り」になり、答えなくたちすくむ自分が悲しいです。
「誰もが、普通に生きることができる社会を」の希望を持ち続けていきたい。
2025・1・31記