見出し画像

クイーン+アダム・ランバートインタビュー(The Times紙2020年9月)

Under Pressure: Queen on Cancelled tours, gardening accidents - and a heart attack
アンダープレッシャー: クイーン、キャンセルされたツアーやガーデニングのアクシデント、そして心臓発作について

画像1

Queen and their singer Adam Lambert talk to Will Hodgkinson about the future of live gigs and memories of Freddie
クイーンとそのシンガーアダム・ランバートがウィル・ホジキンソンとライブギグの将来やフレディの思い出を語る

"Mama, I just killed a man" 、 ブルーのアイシャドウ、グリーンのヒョウ柄スーツのフロントマンのオペラ的なテナーに合わせてシドニーのANZスタジアムで観衆が歌う。"Put a gun against his head. Pulled my trigger, now he's dead",  彼は歌い、ブライアン・メイがギターを劇場的ロックの華々しさの中で持ち上げる。

曲はもちろん「ボヘミアン・ラプソディ」、即座にそれとわかる6分間の傑作のパフォーマンスは “Live Around the World”  からのエモーショナルなクライマックスだ。クイーンのワールドツアーのハイライトがまとめられたライブアルバムと映像で、伝説的な1985年のライブエイドのセットリストのシドニーでの再現で終わる。しかし近ごろ舞台に上がっているのはアダム・ランバート、「アメリカン・アイドル」の元出場者で、最も愛され影響の大きいフロントマンの一人フレディ・マーキュリーの後任という困難な仕事を、2012年以来引き受けている。

「それは常に問題だね」、9万人のクイーンファンの前で毎晩歌うことのチャレンジについて尋ねるとランバートは言う。「自分はものまねをしたくないことは分かっていた。フレディと僕は違う。見た目が違うし、違った経験をしている。似ているところもある  ―  僕は派手な個性で知られているし、こう言おうか、僕たちの私生活には類似点がある ― でも観客が見ているのはフレディではないと僕は分かっている。可能な限りベストなパフォーマンスをし、誰もがっかりさせては帰さないようにしなければならない理由はそれだ」

クイーンが成功し続けていることは、近年のロック史で驚くべきストーリーのひとつだ。評論家は酷評した2018年のマーキュリーの伝記映画「ボヘミアン・ラプソディ」は世界で9億ドル以上の収益を上げ、これまでで最も成功した音楽伝記映画である。そして、1991年のマーキュリーの死でクイーンが終わったと思ったとしてもあなたは許されたかもしれない。

「フレディの後任を立てるのは不可能」と、1997年にバンドの仲間と最後の仕事をしたベーシストのジョン・ディーコンは言った。メイとドラマーのロジャー・テイラーは2005年にまさにそれをしようとした。ポール・ロジャースに再結成ツアーへ参加を依頼したのだ。バッドカンパニーとフリーのブルース的な元シンガーは、比べるといかにも職人的に見えた。しかし、赤いレザーコートとハイヒールのランバートが ”Tear It Up”の最中に肩と腰をゆすってメイのギターに絡むのをロンドンのO2アリーナで見たり、チアリーダーの一団のきびきびとしたフォーメーションダンスに囲まれながらダラスで ”Fat Bottomed Girls" に合わせて歩き回るのを見たりすれば、アメリカのタレント発掘番組出身でブレークしたこのスターが、悪趣味に見せずに舞台上でマーキュリーの場所を占めるための自己認識、謙虚さ、女性的ユーモアと強力な歌唱の、まさに望ましい組み合わせだと結論づけざるを得ない。

「アダムは観客に『僕がここにいるのはクイーンとフレディに敬意を表するため。僕も君たちと同じようにファンだから』とよく言う」とメイ。ランバートの出会いは2009年、彼とテイラーが「アメリカン・アイドル」のファイナリストたちと一緒に "We Are the Champions" を演奏するよう依頼された後だ。「アダムと出会った時、僕らは誰かを探していたわけではないが、彼には実にカリスマ性があって(組むことが)道理にかなっていた。2012年にキエフで50万人を前に初めて一緒のコンサートをした時は死ぬほど怖かったとアダムは言うだろうが、彼はとてつもない自信を持っていたよ。それにナイスガイだ。仲良くやっていけない人とは一年の半分の間世界をツアーはできない」

2020年5月から、クイーンはO2アリーナの12夜を含むヨーロッパのツアーに出るはずだった。そこにコロナウイルスだ。全ての日程は来年に変更され、テイラーの言い方では「我々は指をクロスさせている(=幸運を祈っている)。マスクの着用は理にかなっていると思うが、ワクチンができるまではウイルスとうまくやっていくよう学ばねばならない。風邪やインフルエンザと同じように」となる。ランバートは楽天的だ ― 「すべてがキャンセルされた時はもちろんがっかりした。でもこれは、過去長い期間で世界が直面した事態の中で皆が最もひとつになれたことでもあるし、しばらくゆっくりできたのはよかった」― 一方、メイにとってパンデミックは彼の「ひどい年」らしきものと時期が重なった。

2月末、クイーンのオーストラリアツアーを終えたメイはすぐにロンドンの自宅でロックダウンに入った。6か月の間子供たちと会えず、サリー州の自分のレコーディングスタジオにも行けないということだ。それから奇妙なガーデニングのアクシデントに見舞われた。掘る作業で「張り切りすぎて」大殿筋に裂傷を負った。そして重症の坐骨神経痛。その後にステント3つとさまざまな薬を必要とした心臓発作だ。政府にアナグマ殺処分の愚かさを理解させようとする彼の試みもうまく行ってはいない。

「 戻る道は長い登りだ」とメイは健康の回復について言う。「薬が原因の合併症がいくつかあり、その中の stomach explosion (※ 直訳すると「胃の破裂」、辞書には見つからず、胃か腸の穿孔かもと想像しますが・・)では死ぬところだった。心臓発作は動脈疾患の象徴だが自分は酒もたばこもやらず、コレステロールは高くないしツアーの間ずっと運動もしていた。なのになぜそんなことが起きたんだ? 少なくとも今は以前よりずっとよく働いてくれる心臓を持っているが」

アナグマに関しては?「イギリスはかつてないほど大規模な殺処分に乗り出そうとしていて、胸が張り裂ける」と彼は憂鬱そうに言う。「アナグマを殺すことが[牛の結核を封じる]解決策ではないと示す十分な証拠がある。しかし我々はすでにイギリスのアナグマの三分の一を失っている。悲劇だし犯罪だ。我々の子供たちは、世界が機能するため我々が頼っている生き物たちのいないわびしい世界で育つことになるんだ」

クイーンがいかにありそうもない個人の集団だったかが思い出される ― そしてオリジナルメンバー4人全員が曲を書くことで、いかに異なったスタイルのコレクションであるのかも。バンドのルーツは、ロンドンのインペリアルカレッジで物理を学んでいたメイがスマイルというバンドをテイラーと結成した1968年まで遡れる。テイラーは歯学を学び、ヒッピーのメッカのケンジントンマーケットで、程なく自身をフレディ・マーキュリーとして作り直すことになるザンジバル生まれのフレディ・バルサラと一緒にストール(小さなショップ)を経営していた。

「大学にいるべき時に毎日ケンジントンマーケットにいて、ロンドンで最もカラフルな人々に囲まれていた」とテイラーは言う。「一度ジミ・ヘンドリックスが姿を見せたが、自分たちはちょっとランチに出ていて。あの場に引き寄せられたのは、自分たちがベルベットを着て人目を意識して歩き回る派手なタイプだったから。フレディは自分たちのことをケンジントンのポン引き/ヒモと呼んでいた」

1974年にザンドラ・ローズがクイーンにステージ衣装をデザインし、彼らは最も早く高級ファッションを取り入れた中のひと組となった。「自分のはとにかく暑すぎて死ぬほど汗をかいた。一度しか着なかった」とテイラーは言う。

マーキュリーはどのような人だったのか?「彼は親友だったので、言うのは難しい」と、かなり感情的な口ぶりのテイラー。「ある意味とても内気だったしダークホースだった。本を読んでいるのは一度も見たことがないのにあの素晴らしい歌詞の数々を考え出したこととか。野心的でもあり、我々の成功を決して疑わなかった。『才能は世に出るものだよ、君たち』とよく言っていた」

「根本的に、フレディは自分に自信がなかった」とメイ。「でも、信じること、焦点を合わせること、そして自分の才能を活用することで丈夫なよろいを作り上げた。彼には目指す場所のビジョンがあって、それで彼を思いやりがなく冷酷だと感じる人もいた。フレディが間違いとみなすことをした人が2度目のチャンスをもらうのは難しかったね。彼の音楽の妨げとなるものはなんであれ許されなかった」

クイーンが注目されるまでどれほどかかったかを忘れるのはたやすい。真のブレークは1974年の3枚目のアルバム "Sheer Heart Attack" までなかったし、その当時でさえ彼らは奇妙な存在だった ― ハードロッカーにはなよなよしすぎ、芸術家気取りのデヴィッド・ボウイタイプには真っ当すぎ、それにシンガーは全てが過剰だった:騒がしすぎ、派手すぎ、熱烈すぎ。

「最初のころ、僕らはフレディを好きではあったがその能力には確信を持ってはいなかった」とメイは言う。「彼は走り回り、けたたましくわめいて全く制御不能なようだった。僕らはレッド・ツェッペリンがいかにプロかを見たことがあった。僕はデヴィッド・ボウイをレインボー[フィンズベリーパークにある劇場]で見て嫉妬した。彼は成功したのに自分たちは一体どこにいる? インペリアルカレッジでギグをやり、観客のためにポップコーンを作り、来ることなどないレコード会社の幹部を招待していた」

メイが認めるように「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンの物語を過度に単純化しているが、とりわけ信じがたい面がある。マーキュリーが乱痴気騒ぎ過多へと落ちていくのが描かれる一方 ― 映画の製作者たちは、ドワーフ(小さい人)たちが頭に乗せた大皿からコカインを差し出した、1978年ニューオリンズでの悪名高き "Jazz" のアルバム発表パーティー再現のところでやめたが ― 残りのメンバーは自宅の妻の元へ戻るのが待ち切れない平凡な男たちという印象を与えた。彼らもまた時代の悪徳に屈したはずでは。

「ロジャーはロックスターらしく生きていた。僕よりもはるかにそうだったのは、僕がいつも(音楽以外の)いろいろな世界を行き来し、真の意味では天文学から離れなかったからだと思う」と、1970年に惑星間の塵についての博士論文に取りかかり2007年に完成させたメイは言う。「僕には常にオタクっぽい天文学者な部分があったし、猛烈に家庭的な男でもある。ディーキー[ディーコン]はまた全く別の話だ。そして、そう、フレディは快楽主義的だったが人目を避けてもいた(引きこもりがちだった)。彼は謎だった」

クイーンのメンバー全員がマーキュリーは病気だと知っていた。テイラーはマーキュリーのアシスタントから彼が死んだとの電話を受けた時、彼を訪ねるためケンジントンハイストリートを運転していたことを思い出す。しかし「ボヘミアン・ラプソディ」では、そのような最後の日々を詳しく描写するよりも、ボブ・ゲルドフの「クソヒット曲をプレイしろ」とのアドバイスを受け入れたクイーンが20世紀最大のチャリティーコンサートの花形となった、1985年のライブエイドでのパフォーマンスで作品を終わらせる決断が下された。

「ライブエイドに関して自分はナーバスだった」とテイラーは認める。「自分たちの観客ではなかった。我々は後から(ラインナップに)加わり、出番は日中で照明の助けもなかった。でもあの日、フレディは燃えていた。うまく行っていると分かるものだよ、見上げた時にスタジアムが揺れる小麦畑のようだったなら」

ランバートは、新たな命を吹き込まれたクイーンでの自らの役割が時代の変化を反映している感じている。ロックバンドで3人のストレート男性とパフォーマンスするゲイ男性として、マーキュリーは分かりやすく隠れていた。グループの名前からマッチョなレザーファッションまで、彼は自分のセクシュアリティについてのシグナルを送っていたのだ、決して公表はせずに。一方ランバートは「アメリカン・アイドル」に最初に登場した時からゲイであると公言している。

「フレディの時代、他のセクシュアリティと戯れることはできてもはっきりと言うのは無理だった」とランバートは言う。「今はすべてが事実そのままだ。アイデンティティはアートの主役になり、ポップ歌手は自分が何者であるかやソーシャルメディアへの関わり、社会問題が大切。同性愛はオープンに話し合われ、遠まわしに語られた70年代とは正反対だ。初期のアルバムでフレディは女性っぽさを探り、それからさっと方向転換して、80年代はゲイカルチャーのトレンドを追って口髭とレザーでマッチョになった。今、僕はその歴史を毎晩探索できる。派手さと女っぽさに少し浸り、それから "I Want It All” のように男くさい曲を濃いアイシャドウとスパンコールのベストで歌う」。

クイーンの息の長さの真の理由は単純。その音楽だ。南部を揺らした "Fat Bottomed Girls" ― メイによると「僕らがツアーで出会い好きになったすべての人たち、多くの場合きれいではない子たちだった」にインスパイアされた曲 ― から、両腕を突き上げるスタジアムロックの ”Radio Ga Ga" まで、曲たちは持ちこたえてきた。それらは私たちに、よりシンプルだった良き時代や一体になることを思い出させる。この6か月に起きたことすべてにも関わらず、延期された日程のチケットのキャンセルが非常に少ない理由はおそらくそれだろう。

「食べる物が満足になくてもクイーン+アダム・ランバートのチケットを持ち続けている人たちがいるのではとつらい気持ちがある」とメイは言う。「今から1年後の状況がどうなっているかは誰も分からないが、 "We Will Rock You" や "We Are the Champions"  の当時、観客を僕らと同じぐらい重要なライブの一部にするとクイーンは決めた。再びそれをできるよう願うだけだ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?