vol.17 いつの時代も情報戦だったのか --- 台湾海峡を通過するロシヤ、バルチック艦隊を発見 ---(台湾各地の記念碑や観光案内板を翻訳してみる)
台中と新竹の中間あたりに通霄(トンシャオ)と言う街がある。この地が日露戦争バルチック艦隊撃破に大きく貢献したことを示す物語が日、中、英で碑文に記されていた。日文を転記する。
(転記)
本町の虎頭山は、苗栗県西海岸丘陵の海に近い、最も高いところに位置しており、山脈は綿々として連なり、又の名を旗山と称し、海抜93.42メートル、、全町を見下ろし通霄溪これを囲繞して流れ、山水絶妙、景色錦の如し。ここより台湾海峡を眺望するに、往来する船ことごとく目に入る。故に「虎嶼観海潮」の誉れあり夙に苗栗県十二景の一つとして名を知られる。苗栗県誌の虎頭山に対する描写は;「その形たるや猛虎頭を上げて嘯き、浜辺に屹立して、海を睥睨するが如し、水天相連なり、波濤さかまき、白浪天を擊ち、風静かなれば鏡の如く、船行き来し、𠥹飛び交う。砂浜銀の如し。昔の人これを称して吞霄魚艇の勝景なりと。誠に然りなり。」
1904年2月(清の光緒30年)日露戰爭勃発、乃木将軍は日本陸軍第四軍を指揮して、当時ロシヤの占拠する中国遼東半島の旅順租界地を攻擊す。ロシヤもバルチック艦隊を遼東に派遣して、日本海軍と雌雄を決して、連敗の恥辱を雪がんとす。日本国海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎、ロシヤ艦隊北欧より日本に来るに須く大西洋よりアフリカ大陸南端の希望峰を廻り、海路必ず台湾海峡を経過するを知る。敵の機先を制せんと、虎頭山に情報基地を設け、通信兵を進駐せしめて日夜監視せしめる。
1905年5月(清の光緒31年)ロシヤ艦隊台湾海峡を通る。基地進駐の通信兵これを発覚、直ちに日本軍に通報、日露両艦隊に対馬海峡に於いて決戰、ロシヤ艦隊大敗北せり。日露戰爭終結後、日本国この地の海戰に対する貢献の巨大なるに基づき、大正年間に日露戰役望楼紀念碑を建立する。第二次大戰後、中華民国駐留軍碑文を台湾光復記念碑と改名せり。本町役所虎頭山公園建設に際し、貴重なる史跡及び時代文化遺産を忠実保存するが𤔡、特に整備し以て子々孫々の歴史の証拠とす。
註:碑文考証者 元通霄國民小学校長 邱雲炎
通霄鎭公所秘書 李玉騰
通霄鎭 鎮長 邱紹俊 謹んで記す
翻譯 蘇榮焜
中華民國87年 元月 (公元1998年)
(転記終わり)
碑文の冒頭に漢詩が記されていたが、碑文の訳者も翻訳していないので、そのまま転記しておく。
浩渺無因溯去程,仙槎何處是蓬瀛?
輕浮一粒湏彌小,抱括恆河色界淸。
世外形骸林可渡,空中棲閣氣噓成;
情知觀海難𤔡水,更有紅輪向此生。
2023年3月12日に訪問
この地の石碑の存在は、今年1月に花蓮から台南に帰る自強號(特急)が途中で停車した時、GoogleMAPに日露戦争と言う文字が浮かび上がり初めて知った。vol.16の乃木将軍上陸地点を見に行ったのも、こちらがきっかけだった。