魔法のベーグル ~魔法で若返ったらなぜかアイドルデビューして推しと結婚していたハッピーエンディング・ラブストーリー~(創作大賞2024投稿用①)
(あらすじ)
第1話
え。
雪乃みもりは自分の両手を見つめた。
しわが目立ってきていた手の甲がすべすべして、ぷっくりピンク色に丸みを帯びている。
きれいに長さのそろった爪はとても健康そうで、桜貝のようにつやつやと輝いていた。
だれの手?
しっとりした頬にふれながら、みもりはぼんやりその違和感と向き合った。
髪の毛?
金色……?
え……?
みもりはぼうっとしながら身体を起こした。
いつのまにかベッドで眠ってしまっていたらしい。
「って、え? 何、ここどこ?」
見覚えのない光景に、みもりは混乱した。
高い天井は白いアーチに縁取られ、まるでヨーロッパの宮殿のようだ。
ホテルだろうか。泊まった憶えもないけれど。
みもりは、ひどい違和感に戸惑いながら顔を上げる。
きれい、ぴかぴかのクローゼット……
壁に填めこまれた光沢のあるクローゼットも真っ白で、その一枚が縦長の鏡になっていて……
「え?」
思わず悲鳴をあげそうになって、両手で口を押さえた。
「うっ、そ……!」
押さえても声が出た。
「何これ? わたし……?」
外見がまったく違う。
これまでの自分ですらない。まるで別人だ。
以前、推しのコンサートに行ったとき、隣の席にいた美少女を思い出した。
やっぱり若い子は綺麗だなあと憧れの目を向けてしまって、いやいや若い子は若い子、わたしは大人の余裕で推しを応援する! と自分に言い聞かせたあのとき。
今や、みもりはそのときの美少女そのもの、いやそれ以上だった。
ほっそりとした完璧なシルエットと、人魚姫のごとく長い、ひらひらのワカメのような金色の髪(語彙力)。
アニメ界でもめったにお目にかかれない超弩級の美少女だ。
「すごすぎ……。めっちゃかわいい……。理想……♡」
若い頃の自分のおもかげはどこかにあるような気もした。だが、その若い頃の自分を、少なくとも三千倍は美人にしたようにも感じる。
いや、見かけばかりではなかった。
からだが、軽い?
慢性的な痛みを伴っていた腰も、今やまったく痛みを感じない。
みもりはからだを横に曲げ、縦に曲げ、伸びをしてからだをそらし、最後にはバレリーナのように脚をあげてみた。
「わ。めちゃ上がる」
驚異的な高さまで上がる。しなやかに曲がる。
これなら、E-yennph(イーエンフ)のバックダンサーくらいにはなれるかもしれない?
スーパーグローバルアイドルE-yennph。
彼らと同じステージに立てるなら、それは最高の推し活になる……!
そんな阿呆な想像をしてしまった自分に、みもりが思わず吹き出してしまったときだった。
「ミモリ?」
低くて深みある、でもどこか甘ったれたような青年の声が背後から届く。
「どうしたの? 鏡なんかにらんで、次の新曲の演技練習?」
この声には聞き覚えがある。
当選したオンライン通話で、何度も通ったステージで、みもりはその声をたしかに聴いたことがあった。
「……シウ?」
E-yennph(イーエンフ)のメインボーカル、イ・シウ。
みもりの推し中の推し。
この世で最後の推しと決めた人。
世界中にファンを持つK-POP音楽界のアイドルの中でも、実力派グループのE-yennphは、現在、人気急上昇中の最高の存在だ。
そのメインボーカル。
つまり、みもりとはまったく懸け離れた世界に住む芸能人。
ばかだな。
シウのはずがない。
妄想もここまで来ると病気だ。
半ば苦笑いしながら、後ろを振り返ろうとしたところで、背中からふわっと抱きしめられた。
「ミ・モーリ」
耳のうしろに近づけられた唇。
甘い声で、囁くように呼ばれて、激しく胸が高鳴った。
自分よりうんと背が高い、理想の彼。
この背丈にも憶えがある。
ミート&グリートのハイタッチ会に当選して、悲鳴を上げた。
地元福岡から東京まで、高額な飛行機チケットを取って会いに行って、ほんの一瞬だけれど、E-yennphのシウにハイタッチしてもらって夢見心地……。
「内緒で来るなんてずるいな、ミモリ。ここはふたりの部屋だよ。ここに来るときは連絡してって、言ったよね?」
言ったよね、って。
気絶する。
……でも待て。
これは夢だ。
彼のぬくもりとスパイシーで甘い男性的な香りに包まれながら、みもりはぎゅっとまぶたを閉じた。
彼が推しと同じプラダの香水を使っていることなんか考えちゃだめ。
冷静に考えよう。
シウは韓国人。
彼のしゃべる韓国語は美しいけれど、みもりにはいつも理解不能で、youtubeで誰かが字幕をつけてくれてようやく理解できる程度だ。
こんなに彼のしゃべっている言葉の意味がわかるはずがない。
つまり、これは、
現実、じゃ、ない!!!!!
その男の腕の中で、くるっと振り返って、相手の顔をにらみつける。
「ん?」
かわいらしく小首をかしげたその綺麗な綺麗な奇跡の顔。
ああ。
ときめきと混乱がみもりを襲った。
ぜったい間違いない。
自分が彼を間違えるはずもない。
これは――シウ。
間違いなく、E-yennphのシウ……!!
「僕のミモリ。大好きな、僕の奥さん」
これが最後の爆弾だった。
奥さん???
いつ、
いつ結婚したの、シウ――……!!!???
「ミモリ!?」
みもりはとうとう意識を手放した。
推しの熱い腕の中で、ひとことだけつぶやいて。
「あれは、ほんとに、魔法のベーグルだったの……?」
※
半日前。
みもりは、大雨の中をずぶ濡れになって歩いていた。
凍える季節ではなかったにせよ、みもりの身体は冷え、心も冷えびえとしていた。
薄給で働いていた会社をクビになったからだ。
同僚の失策をかばい、自分の失策としたせいだった。
上司はみもりにすべてを押しつけ、同僚は知らぬ存ぜぬで済ませた。
生真面目で冗談ひとつ返せないみもりは、会社に相談できる友人もいなかて。
結局、誰にも何も言えないまま、荷物をまとめて出るしかなかった。
後から思えば、どこかに訴え出るべきだったのかもしれない。
だが、みもりはいつもひとりですべてを抱えこむタイプだったし、うまく笑い飛ばしながら掛け合うこともできない。
第一、今はもうそんな気力も残っていなかった。
打ちのめされ、これからどうしようと考えることすらできず、濡れたまま歩いていたら、突然、青い扉が開いたのだ。
近所にあったけれど、一度も行ったことのなかったベーグル屋の扉だ。
どうやら閉店間際だったのに、店長らしき女性がずぶ濡れのみもりを中に引き入れてくれて、温かなベーグルを御馳走してくれた。
そのとき、彼女が言ったのだ。
「そのベーグル、魔法がかかっているんですよ」
ベーグルとホットミルクの温かさにぼうっとしていたみもりは、聞きまちがえたのかと思った。
「魔法?」
「ええ。実は私、魔法使いなのね。いつもはふつうのベーグルを焼いているんだけど、日に一度はミラクルな魔法がかかったベーグルを間違って焼いてしまうのよ」
「…………」
冗談を言ってなぐさめてくれているのだろう。
みもりはただぼんやり笑った。あいかわらず冗談にはどうやって応対していいかわからない上、今は声を出す元気も残っていない。
「今夜は満月だし、魔法もかかりやすいと思うわー」
語尾を伸ばす特徴的なしゃべり方でそう言いながら、ベーグル屋の店長はあたかもそこに夜空が見えるかのように天井を見上げている。
さすがに無理があるなあと、みもりの笑みは苦笑いに変わる。
「月は、見えないですけど」
外は雨が降り続けている。
「雨夜の月ね」
「あまよのつき?」
「本当はそこにあるのに目には見えない。そういうことわざ。ご存知かしら」
「………」
みもりは応えなかった。
気の利いた返しを口にする気力はもうなかったし、その女性の声はまるで子守歌のように低く、ただ聴いているのが心地好かったからだ。
「覚えておいてね。”本当はそこにあるのに目には見えない” ―― あなたの望みを叶えるための大事なことわざよ。雨夜の月」
「あまよの、つき……」
魔法のベーグルなんてあるはずがない。
みもりのあまりにも憔悴した様子に同情して、慰めようとしてくれただけだろう。
そんなことを考えているうちに眠気に襲われる。
疲れ過ぎているのね。
身体も、心も。
店長の声がふわふわとした温もりになって鼓膜を揺らす。
さあ、行ってらっしゃい。
あなたには本当の運命が待っているのよ……
何を言われているのかもわからなくなる。
そうしてみもりは、店長の声の温もりとやさしいベーグルの味に安心して、その場でゆっくりと眠りの渦に巻きこまれていった。
※
「ミ・モーリ」
波音のように押し寄せる素敵な低い声。
「ミモリ。ねえ。ぼくもう行かなきゃいけないんだ。起きない?」
どうやら相手はもう時間がないようだ。
けれど、そんなふうに急いた声で促しながら、頬に触れてくる指はやさしい。
「シウ」
まぶたを持ち上げたみもりは、自分が推しの腕の中で眠っていることを知る。
どうやら魔法はまだ続いているようだ。
心臓が口から飛び出しそうなのは前と同じだが、二度目だ。
今回はパニックを起こさずにすんだ。
「よく寝ていたね。寝不足だった?」
「……うん。そうみたい」
この現実は、あまりにも非現実的すぎた。
そして、人はあり得ない現実の中では、もっとも現実的にふるまうことができるのだと、みもりは身をもって知る。
「もう行くの?」
かの超人気アイドルE-yennphのメインボーカルだ。
忙しくないはずがない。
「うん。事前収録があるから」
「そうだよね。知ってる。行ってきて」
なんだか恋人のように自然な返事をしてしまって、みもりの頬は赤く染まった。
「行ってくるよ、奥さん」
シウがそう囁いて頬にキスしてきたとき、扉をノックする音がして、みもりはビクッと肩を震わせた。
「大丈夫。マネージャーだよ。ぼくらの味方だ」
※
「う、歌う? わたしが?」
シウがマネージャーだと言ったので、E-yennphのマネージャーかと思ったら、違った。
現れた妙齢の女性はなんと、みもりの、いや、みもりの所属するアイドルグループのマネージャーだった。
「当然でしょ。あなたはルプテのメインボーカルなんだから」
スモークウィンドウ付きの真っ黒な車で大きな建物に移動させられたかと思うと、いきなり薄いシフォンをたくさん使った衣装を着せられた。
そうして気づけば、眩しいほどキラキラと輝くステージの舞台袖に立たされていて、みもりは茫然としてしまう。
「メインボーカル……、わたしが? ルプテ?」
「ああ、髪がくしゃくしゃ! 早くやり直して! もう時間ないわよ!」
ボブカットのかっこいいマネージャーがスタッフを呼び寄せ、ヘアメイクを修正させる。テキパキと指示するマネージャーの顔は、あのベーグル屋の店長に似ているような気もしたが、それも気のせいだろう。
なにしろ、あり得ないことが立て続けに起こっていて、みもりはその新しい現実に馴染んでいくだけで精一杯だったのだ。
「歌うってつまり、韓国語の歌詞とか……? え、ちょっと待って。むり。めっちゃムリ!」
「なーにブツブツ言ってんの、ムーンストーン!」
背中をパアーンとたたかれる。
でも、力はぜんぜん入っていない。愛のこもった叩かれ方だと感じる。
「ピンクダイヤモンド」
驚くことに、みもりは自然に彼女に応えていた。
そうだ。
わかる。
メンバーたちの顔を憶えている。
みもりは、次々と思い出していた。
そう、自分はグローバルアイドルグループ『Les petits bijoux(ルプティビジュ)(小さな宝石たちという意味)』の一員だった。
略して、ルプテ。
メンバーは7人。
それぞれに宝石の名前がメンバー名のうしろにつく。
みもりは、ユーリ・ムーンストーン。
ユーリは、《雪乃みもり》の最初の「ユ」と最後の文字「リ」を取って作ったみもりの芸名だ。
「なんか、キンチョーしてる? ユーリ?」
心配そうにみもりの顔を見上げてくる、ちょっと小柄な子。
くるくるカールさせたピンク色の長い髪。笑うとえくぼができる愛嬌抜群の可愛い少女は、
「ソア」
ルプテのメインダンサーでラップ担当、ソア・ピンクダイヤモンドだ。
「ううん、大丈夫」
「久しぶりの新曲だもんね。今回のカムバで10位以内に入れなかったら、わたしたち、解散かもなんだもん。キンチョーするのあたりまえだよ」
「…………えっ?」
解散?
「ユーリの歌にかかってるんだよねー。正直、今回も事務所が用意してきた曲ってイマイチだけど、ユーリの奇跡の声があれば、ぜったい大丈夫! 期待してるよっ!」
ソア・ピンクダイヤモンドが、アイドルそのものの無邪気な微笑みを浮かべてみもりの肩をたたく。
「行こっ! お客さんいっぱい入ってるよ。まあ1位はE-yennphに決まってるけど、わたしたちのファンだってそれなりにいるから!」
待って待って、大混乱。
つまり、こういうこと?
わたしは、売れていない解散寸前のアイドルグループのメインボーカルで、一方の彼氏(図々しいけれど現実そうなっている)というか、もしかしたら夫(キャー!)のシウは、世界的に人気爆発中のトップアイドルグループのメインボーカル?
え、それって。
悲劇まっしぐらじゃない?
ファンにばれたら、マジ殺されそうなんだけど?
わたしがシウペン(シウのファン)なら、シウにそんな存在がいるなんて許せないし!
頭の中で、シウのファンである自分と、今現在の現実であるアイドルグループ・ルプテの一員である自分とがゴチャゴチャになってしまう。
そして、目の前には満席の観客の歓声が聞こえるステージがあるという恐るべき現実。
うそ。
歌える、わたし。
眩しすぎるステージライトに照らされながら、まっすぐの長い脚を前に踏み出す自分が、みもりには信じられない。
だが、ぜんぶ夢だと思おうとしても、つねれば普通に痛いし、いつまでも夢だとは思えないリアルさが、この夢にはあった。
何より、みもりはセンターで歌い始めていた。
なんの迷いもなく、振り付けも、身体に染み付いているかのごとく自由自在にこなしながら。
輝く銀色のマイクを手にしながら、みもりはハイトーンの裏声を響かせていた。
たぶん、この歌詞は、英語と韓国語。
でも、歌える。
ぜんぜん止まらずに、振り付けもこなしながら、一言一句まちがいなく歌えてしまう。
歌手になるなどと想像したこともない。
歌が得意だったこともない。
踊りが得意だったこともない。
どれだけ塗りたくっても顔色が良くならない、口紅の色さえ自分では選べずよく失敗する、どうしようもなく冴えないおばさん事務員だった自分だ。
それが今や、K-POP最前線の音楽番組のステージで、煌びやかな宝石の衣装を着て、(少しはいるはずの)ファンの前で歌っているのだ。
その上、解散寸前?
メインボーカルの責任重大?
「なんで?」
マイクのない場面で、思わずつぶやいてしまった。
「どうしてこんなことになっちゃってるの?」
そんなふうに自分のことで頭がいっぱいになっていたせいだろう。
あ!
しまった……!
そう思ったときには、もう遅かった。
みもりは自分のボーカル部分の入りに失敗してしまう。
ほんの一瞬だった。
熱狂する観客にはわからなかっただろう。
だが、メンバーたちにはさすがにばれてしまっていたらしく。
パンッ!
控え室に戻ったとたん、平手打ちが飛んできた。
いったあ……。
「なに考えてるの!」
叫んできたのはジアンだ。
ジアン・エメラルド。
彼女はリーダーで、誰よりも責任感が強かった。
「今日のステージがどれだけ大事だったか、わかってないわけないよね!」
「……ごめん」
みもりは赤くなった頬を押さえてうつむいた。
今度は本当に力を入れて叩かれた。やさしさや愛とは無関係。
これは、ビジネスで失敗した者に与えられる当然の鞭だ。
「ほんと、ごめん」
「ごめんで済むならいいよ! ムーンストーン! あんたが知らないはずないじゃん! あたしら、今回の成績悪かったら次はないんだよ!」
「ジアン、ジアン、落ち着いてよ。大丈夫だよ」
「うんうん! ユーリの他のパートは完璧だったし、あのくらい、誰にも気づかれなかったと思うよ!」
「あのくらい!?」
ジアンの真緑の髪が、パッと宙に翻った。
「そんな適当なこと言ってるから、わたしたち、いつまでも売上げが伸びないんだよ!」
辛らつな言葉に、メンバーたちがしんとなる。
「い、言い過ぎだよ、ジアン。今日はわたしだってミスしたもん。ダンス、タイミング合わなくて」
ソアが泣きそうになっている。
そうだ。雰囲気が悪くなるたび、一番悲しそうな顔をするのはいつも、ソア・ピンクダイヤモンドだった。
「ううん、ソアは関係ない。わたしのミス、わたしの責任。ほんとに申し訳ないと思う。無責任すぎたよね」
「ユーリ……」
「もう収録終わっちゃったから取り戻せないけど、次があったら、必ず修正する。もうぜったいこんな失敗はしない」
「……次が、あればね」
ジアンが肩を落とす。
「あるよ、きっと」
漆黒のストレートヘアが美しいハユン・サファイアが、きっぱりと言い放つ。
上背のある彼女は、ジアンとみもりの両方の肩を抱いて明るく言った。
「mimiががんばってくれてるもん。mimiは私たちのこと、そう簡単に解散させないよ」
mimi(ミミ)は、可愛いという意味の、ルプテのファンダム名だ。
K-POPのアイドルグループは、こんなふうにそれぞれにファンにも名前がつけられる。
日本で推し活をしていたとき、みもりはその制度をとても好ましく思っていた。
ただ○○のファンというだけではなく、自分にも特別な名前が与えられるのだ。ファンとしての人格が与えられると言っていい。
そうしてmimiという名が与えられたことによって、自分はルプテを愛し応援する者なのだという自覚が出て、CDの売上げに貢献したり、音楽番組のときの集票をがんばったりも普通のことになっていく。
ちなみに、E-yennph(イーエンフ)のファンダム名は、Yenn(エン)だ。
日本語の「縁」のイメージも取りこんで決まったらしい。
そのくらい、日本でも大人気のE-yennphなのだ。閑話休題。
「順位が出ました。9位! 10位以内です」
マネージャーの報告に、控え室内が一気に沸いた。
みもりは胸を撫で下ろす。そんなみもりにメンバーが抱きついてくる。
「よかった」
「ごめんね、ムーンストーン」
みもりのミスを責めたジアンも、みもりの耳元で謝罪の言葉を囁いてくる。
おかしなことに、みもりの目頭が熱くなった。
魔法でこの世界に入って、わけもわからず歌って踊って、アイドルとしてステージに立っても実感はないのに、感情ばかりが激しく動いている。
「やだ、ユーリ、泣かないで!」
「ううう」
「ムーンストーン! あんたが泣いたらあたしまで泣いちゃうだろ! 泣くなったらー!」
結局、メンバー全員で号泣するLes petits bijoux~小さな宝石たちである。
※
「それで? 店長、あの方、結局、亡くなられたんですか?」
「え、なんの話?」
「ほら、この店の前で交通事故に遭った人」
「あ、あの大雨の日の?」
「あれはひどい事故だったらしいねえ。新聞にも載ってたよ」
ジオベーグルという看板とフレンチシックな青い扉がベーグル屋では、イートインの席で常連さんたちがおしゃべりに花を咲かせている。
「まだ若いお嬢さんだったんでしょ?」
「ええ。なんでも会社が雇止めをしていたらしくて、今、騒ぎになってますよ」
「え、じゃあ、もしかして自殺とか……?」
「うーん、まだわからないみたいですよ」
「でも、可能性はありますよね。もしほんとに自殺だったら、かわいそうだなあ」
「ですよねえ」
うらうらと木漏れ日が降り注ぐ昼下がりだ。
ランチを終えた人々は無責任な噂話をやめて、それぞれの仕事場へと戻ってゆく。
「ありがとうございました-!」
最後の客が出ていくと、店長の栗原幸希子は奥から掃除用のモップを取り出して床掃除を始めた。
いや。
最後の客が出ていったと思ったのは、勘違いだったようだ。
「あら、気がつかなくてごめんなさい」
奥のカウンター席に客がひとり残っているのに気づいて、栗原幸希子が掃除の手を止める。
「あなた、もしかして」
しいんと不自然な沈黙が続く。
やがて、カウンター席の女性がゆっくりと口を開いた。
「おまえが逃がしたのだな」
女性のものとも思われないような、低い声だった。
「え?」
「どこへ逃がしたのだ」
「さあ。なんのことをおっしゃておられるのやら」
栗原幸希子は再び床を拭き始めた。
相手にするのも鬱陶しいと言わんばかりに。
カウンターの女性がヒールの冷たい音を鳴らして、そんな栗原幸希子に近づいてくる。
不吉な足音は途中でしなくなった。
「私が、何も気がついていないと思うのか?」
女性の声は不穏で、恐ろしいほど低かった。
明るかった店内が、急に暗く翳る。
「そうねえ、こちらもあなたを見かけたことがありますよ。雪乃みもりさんを尾けていたでしょ。ああ、見張っていたのかな」
恐ろしく低い唸り声が響いてきたが、栗原幸希子は気にする様子もなく続ける。
「同じ会社の後輩として入りこんで彼女を追い詰めるなんて、頭の悪い妖魔がしそうなことねえ」
栗原幸希子のからかうような言いぐさに、女性の細長い眼が金色の光を帯びた。
「いい気になるな。調子に乗ると痛い目を見るぞ。この私はおまえが誰だか知っているのだからな、追放された魔法使い」
「…………」
「よかろう。おまえが口を割らずとも、奇跡の子の跡をたどる方法などいくらもあるのだ」
次の瞬間、女性の姿は黒い浮塵子となった。
シューッと黒い影が店内を蛇行する。
その痕は床に黒い滓のようになって残された。
「あーあ、また拭き掃除しなきゃ」
ジオベーグルの店長は大きく溜め息をつく。
「あの子も災難ねえ。隠すのに苦労したのに、またやつらに見つかっちゃって」
奥の物置からモップを取り出しながら、追放された魔法使い・栗原幸希子はしみじみとつぶやいた。
「持てるものが大きすぎるのも問題かな」
雨夜の月。
離ればなれの魂たち。
まだ誰も本当の運命を知らない――。
#創作大賞2024
#漫画原作部門
#少女マンガ
#青年マンガ