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なぜ、私は今日もひとりで山に登るのか
私は大抵一人で山に登る。
なぜぼっち登山なのかと言うとおおよそ以下のような理由がある。
ぼっち登山の理由
— 🅁🄴🄽🄾 (@renosky99) May 30, 2023
×複数人の登山が嫌
△一緒に登る人がいない、予定を合わせるのが面倒
◎前日300km下道移動&車中泊して25km、標高差2000m以上をコースタイム×0.6で日帰りするような行程に人を付き合わせられない
決して誰かと登るのが嫌いという訳ではない。
ただ、一緒に登る(気軽に誘える)人が少ないというのはあるかな……。
「明日天気良さそうだな、よし山行こう」
ーーみたいに突発的に行くことも多くて、そんな時は誰かを誘う事がそもそも難しいし、事前に予定を擦り合わせるのも面倒くさい。
私は一般的な登山者よりかなり早いタイムで相当な距離を歩く。そんな狂った行程に人を付き合わせられないし、都合よく付き合ってくれるような山友も少ない。だから大抵登山をする時はぼっちなのである。
じゃあ、ぼっち登山が嫌かというとそういう訳でもない。
むしろ、山での孤独な時間を私は愛している。誰にも話しかけられず、ただ自分と山だけが向き合う時間。そこには日常では決して味わえない深い静寂が広がっている。一人だからこそ、より深く山と対話できるような気がするのだ。
◇
山で考えていること
「山に登っている時、何を考えているのか」と聞かれることがある。答えは意外にもシンプルだ——ほとんど何も考えていない。
登り始めの頃は「今日は体が重いな」とか「山頂まで結構ありそうだな」といった断片的な思いが浮かぶ。しかし、それらも歩み続けるうちに次第に霧散していく。気がつけば、目の前の一歩一歩に意識が集中している。まるで自動運転のような状態で、足場の選択や障害物の回避を身体が無意識のうちに判断している。
「来週は仕事が詰まってて忙しいな」
とか
「冷凍庫の食材が少ないから買い物に行かないと」
とか
「そろそろ確定申告の準備を始めなきゃ」
といった日常の思考が、どこか遠くに流れていく。
多くの登山者にとって、同じような景色が延々と続く樹林帯は「つまらない」区間かもしれない。だが、私にとっては無心でいられる特別な空間だ。木々の間を黙々と歩きながら、「ただ歩く」という純粋な行為に没入できる。華やかな景色がないからこそ、余計な思考から解放され、動きそのものに集中できるのだ。プログラムされたロボットのような単純さが、かえって心を解放してくれる。
◇
自然の中のちっぽけな自分
山頂に立ったときの感動と達成感。
雲海と大パノラマ。
言葉を失うほど美しい夕日。
満天の星空。
帰ってくると、体は疲れ果てているのに、心は満たされ、モチベーションは高まる。山に行くたびに、仕事も考え方も前向きになっていく。
山は人を変える。 そして、精神的なレベルを引き上げてくれる。
登山中、私は削ぎ落とされていくような感覚を覚える。余計な思考が消え、ただ「登る」という行為だけが残る。斜面の角度、足場の状態、足元と数メートル先の視線の切り替え、全神経を集中させて進む。
その静けさの中で気づく。
登山とは、一種の瞑想なのかもしれない。
目の前の行動に集中することで、心が研ぎ澄まされる。風に吹かれ、鳥の声を聞き、ただ歩き続ける。その中で、日々の悩みや心配事がいかに取るに足らないものかを思い知る。
山頂に立ったとき、目の前に広がる景色を見て感じるのは、達成感よりも圧倒的な自然の存在感だ。自分の存在は、広大な自然の中の宇宙の中のちっぽけな一点に過ぎない。
だが、それが心地よい。
日常では、自分を中心に物事を考えがちだ。だが、山はその視点を覆してくれる。
「自然の中のちっぽけな自分」を感じるために、私は山に登る。
次の山では、どんな自分に出会えるのか。
その期待を胸に、私はまた山に向かう。
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