一体、なんで株式投資をしているんだろう? #クルミドコーヒー影山さん
#サイボウズ式 に #影山知明さん のインタビュー記事が!!!
影山さんがお書きになった
#ゆっくり、いそげ
#続・ゆっくり、いそげ
この2冊は何度も読み返しています。
記事の前半で出てくるのは「事業計画をつくらない」理由。
目的は”Why”に応えるもの、目標は”How”や”How much”に応えるもの
”続・ゆっくり、いそげ” で登場します。
目的は、疑問詞でいうなら why に対応するもので、その取り組みの存在理由や意義に関するもの。一方、目標は how much に対応し、ある取り組みの進捗を測る際の目安。計数管理を行い、数値目標を設定することは、取り組みに緊張感をもたらし、張り合いや知恵を引き出す上でも極めて大事な経営技術ではあるけれど、ただそのためにぼくらはあるわけではない。
株式投資(コツコツ投資)を15年以上続けてきて、ここ数年、自分にとって重要性をドンドン増しているように感じられるのが why です。
一体、なんで株式投資をしているんだろう?
いつまでに資産の時価をいくらにしたい、毎年x%は欲しいよね、そうしたhow much な目標。今は持っていません。コツコツ投資に取り組み始た頃は how much な目標を持っていました。というのも、当時の僕にとっての「一体、なんで株式投資をしているんだろう?」に対する答え、why は息子たちの学資形成だったからです。おかげさまで、そこの部分に関してはほぼほぼメドが立った感じです。メドが立ったかな、と感じたのが数年前。その数年前に、why を自然と再構築していたんだと思います。
息子たちの学資にメドが立った、とはいえ、将来を考えると「(まだまだ)資産形成」というのは確かにあります。でも、それ「だけ」なんだろか、と。
「(まだまだ)資産形成」を why になってしまうと、結局それは how much に吸い込まれる、飲み込まれてしまう気がしたのかもしれません。
今回の記事、影山さんの言葉。
目標が大きな存在感でもって組み込まれてしまうと、いつの間にかそれが目的化してしまうということが起こるように思います。
これに近い感じでしょうか。
一体、なんで株式投資をしているんだろう?
なぜ株式投資なのか、株式投資のリターンって何なのか、それは誰がつくり出しているのか、そうしたことを考えてみたのです。
僕自身にとって大事なことは「関係者になっている」ってことでした。
新しい価値を創造し、それを提供する会社と「関係者になる」「関係者になっている」。そうした関係が様々なリターンの源になっているんだ、と。金銭的、経済的なものだけではなく、好奇心や関心が強くなったり、意識が高まったりすることもリターンだと思います。
ちょうど今、 #ビジョナリー・カンパニーZERO を読んでいまして。
ビルのやり方がうまくいくのは、両方が何かを「得る」ためではなく、与えるために、その関係に力を注ぐときだけだ。
「関係に力を注ぐ」
これなのかな、と。「関係」ということは、むこうに相手がいてこそ初めて成立します。むこうにいるのは「人」やチームですね。
ろくすけさんがブログで書かれていました。
リタイアしてからというもの、これらの意識に加えて、純粋に世の中に貢献している企業やそこで働く方々への敬意も強まった気がしております。
僕はリアイアしていません。でもわかる気がします。
投資を通じて関係を持っている「人」や会社に対しての敬意って非常に大事だと益々強く感じています。この敬意が乏しくなってしまうと、会社の営みや提供している価値ではなく、その会社がどう評価されるかという価格に関心が向ってしまうように思われるからです。
一体、なんで株式投資をしているんだろう?
現在の僕の答え。
スゴい!素敵! そう感じられる会社、チームに出会い、(ちょっとだけ)関係者になりたいから。
利用(take)から支援(give)へ
理念や目的のためにチームや人を利用するのではなく、経営者や会社がチームや人のためにどんな支援をできるか。
影山さんの言葉です。それとさっきの引用をもう一度。
ビルのやり方がうまくいくのは、両方が何かを「得る」ためではなく、与えるために、その関係に力を注ぐときだけだ。
投資家にも give ってありますよね、きっと。
そもそも投資家は「お金」をgiveしているじゃないか? ってこともあるんですが、実の所はちょっと違ってます。上場会社の場合、株式を得るために使ったお金は会社にgiveされないのが実際です。
何か特別なものを与えられるわけではないですが、投資している会社に関心を注ぎ、調べて気づいたことを自分なりに発信することが、よりその関係を強めてくれる気がしています。giveとはとても言えないですけど。
結果を手放す
影山さんの言葉です。
ただ根本的には、結果をコントロールするという発想には無理があるんじゃないかとも感じています。
何がきっかけか忘れてしまったのですが、最近、ふと思い起こされたんです。
するとですね、残っている人たちは全員、結果無価値派だったので、それ以降に東大に入って法学を学ぶ人は、みんな結果無価値の法哲学を学習するわけですよ。
”2020年6月30日にまたここで会おう 瀧本哲史伝説の東大講義” からです。
結果無価値と行為無価値。大学で二十数年前に聞き齧った言葉です。
結果なのか、行為なのか、どっち?という学説の対立だったと記憶していますが、正直、しっかりと腹に落ちていません、、、
影山さんの ”続・ゆっくり、いそげ” で登場する「リザルトパラダイム」と「プロセスパラダイム」。
「リザルト」は 結果、「プロセス」は 行為。そんなことが思い起こされました。瀧本さんの講義の引用元は「パラダイムシフト」についての話、”世界を変える「学派」をつくれ” です。「パラダイム」って言葉はリンクしてます、偶然?
結果、リザルトに重きが置かれる状況は変わらないとは思うのですが、行為(過程)、人(チーム)が何を為してきたか、プロセスをしっかりと見つめて評価されるような流れがもっと増えてほしい、と感じます。
サイボウズ式さんのインタビューの文脈とはちょっと違った方面に行ってしまったのですが、影山さんの言葉から考えたことを書いてみました。