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最終チェック#映像空間ⅠB
映像空間IBの副題は「ディスプレイのある部屋」なのですが、そろそろ略称があってもよかもと思っています。お元気でしょうか?
2024/5/15は講評前、最終チェック日でした。
今年度より、映像空間ⅠB(ディスプレイのある部屋)では新たに佐藤雄介先生をお迎えしました。
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東京都出身。最近の仕事に、マクドナルド「ティロリミックス」「ゴジラバーガー」「アジアのジューシー」「平成バーガー」「マックTHEチキン」、ギャツビー「メタラバー 髪キメた?」「カッコいいは、変わる。」、集英社 呪術廻戦「最強VS最強」「呪術廻戦展」、タップル「さぁ恋」、日清カップヌードル「HUNGRY DAYS アオハルかよ」、ドコモ「高校1000日間の片想い」、BUMP OF CHICKEN✖️HUNGRY DAYS MV『記念撮影』、まふまふ MV『それを愛と呼ぶだけ』など。クリエイター・オブ・ザ・イヤー受賞。武蔵野美術大学 非常勤講師。
(ACC審査員プロフィールより抜粋)
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佐藤先生はクリエイティブディレクター、プランナーとして様々広告のお仕事を手掛けられています。
マクドナルド「ティロリミックス」
日清カップヌードル「HUNGRY DAYS アオハルかよ」
BUMP OF CHICKEN ライブ空間演出
こちらはごくごく一部。一度は目にした仕事も多いかもしれません。
映像にとどまらず、様々なメディアを駆使して活動されています。
そんな佐藤先生には、映像空間領域にアート(※1)だけではなく、エンターテイメントとして開かれたアプローチをご指導いただいています。
「エンタメに開かれた」と「アート」とは時に対立することも。
「エンタメ」と「アート」を対置すること自体、様々な議論があるでしょう。また、「エンタメ」と「アート」の二項対立を現状認知の矮小化だとし、「積極的判断の留保」も映像学科のしなやかさでもあるとも思いつつ、個人的にはあえて「エンタメ」を意識しながら(※2)一般へ開かれているべきだとここ数年思いを強くしています。すくなくとも映像空間領域では。
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誰でも作り手になれる時代を経て、現在はAIによる自動生成の世界が到来しつつあります。作り手としての固有性(つまり誰がつくったか)はこれまで以上に重要になるでしょう。(※3)しかし一方でその固有性は「作品による」支持・影響力では必ずしもなりません。例えばSNSでは動画をつかっているだけで、その動画の対象に関心が集まるだけです。
「アート」または、美大の映像学科から「エンタメ」を眺めた風景は、その支持の受け方(影響力の獲得の仕方)に一部「アート」が利用されている。「エンタメ」に利用されている。そんな刹那さがありました。その刹那さへの慰撫は、「エンタメ」と距離をとることでなされていたと、私も含めて自省しています。「自分に閉じる」だけでよいのか。映像学科の教員に着任して以来の逡巡です。
佐藤雄介氏(㈱電通)は、一年間のクリエイティブワークを俯瞰したとき、テレビCM、ウェブ、そしてリアルの多角的な展開で、様々なブランドを太く、かつ彩り豊かにし、最も話題をさらった点が評価された。
(2017.クリエイター・オブ・ザ・イヤー受賞)
クリエイター・オブ・ザ・イヤー賞選評より抜粋
佐藤先生と、一度だけ仕事をした際に感じたことは、徹底的な鑑賞者(他者)への「おもてなし」でした。常に他者に開かれている。様々な他者を想定しながら、多角的に見られ方を検証し、映像を仕上げていく姿勢は、広告業界の第一線で活躍できる理由を肌で感じました。「広告」はただクライアントの意向に沿っているだけでは、真の意味で目的は達せられないのかもしれません。
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他方で佐藤先生は、多くの一流クリエイターと仕事をしています。優秀なクリエイターの魅力が十二分に発揮されるようなやりとりを重ねている。
その営みは、美術大学での教育にも重なります。
佐藤先生は作り手でもあり、作り手と対峙する「受け手」(※4)でもある。
優秀な作り手を育てるのは、必ずしも「作り手」だけではない。多くの作り手と真剣勝負を繰り返している「受け手」もまたよい「指導者」たり得ると私は感じています。(※5)
映像空間領域では、映像の愉しみかたも多様化を念頭におきつつ
「映像」の枠に収まらない表現のアプローチを日々模索中です。
(山崎連基)
(※1)この「アート」の用い方に脇の甘さは自覚しつつ。Musashino Art Universityの「Art」に「アート」は、依拠しているのでした。
(※2)ここでの書き方が映像空間は「エンタメ」を目指すということでは必ずしもないことを強調したかったのでした。あくまでも無視をしない。意識をする。
(※3)ここの展開はも少し丁寧に文章にできればと思います。一般的にはAIによる自動生成は作り手を不要にするという展開もあるので、その一般論とは真逆に感じられるかもしれません。
(※4)この「受け手」というニアンスは唐突に感じられると思います。具体的にはクリエイティブディレクターとディレクターの関係性をさしています。このあたり含めて広告のクリエイティブのあり方はいずれ記事にできると!ちなみに佐藤雄介先生はクリエイティブディレクターです。
(※5)ここは美大関係者の諸氏が読まれると大変な違和感を持たれるかもしれません。しかし私はこう考えます。優れた作家は、固有性が高いのであって、反復できないことにその固有性が担保されている。一方で教育とは反復可能な知の教授であり、その固有性の教授が可能であるとすれば、その作家の固有性はそもそも低いのでは。別の観点では、作家が放つ後光によって教育が達成されるという可能性ももちろんある。でも、それは極めて令和には適合しずらいのでは。徒弟制度まではいわなくとも、「背中で教育」できた時代はすでに去っているのでは。
ここも別途文章にするべきだとは思いますが、私には荷が重すぎるとも。汗