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都市表現 #作品紹介

2024/10/14-15に都市表現の最終講評が行われました。

講評にはご指導いただいています橋本直明先生、野村叔子先生に加え
映像空間領域から、篠原規行先生と私(山崎)が参加しました。

実は私は都市表現の講評に参加するのは初めて。
授業スケジュール的に、実現しなかったこともあり、新カリキュラム移行により参加できることに。

講評は作者による説明と上映スタイル


今回は野村先生に成果作品の一部とその解説をご執筆いただきました。(野村先生ありがとうございます!)
ちなみに野村先生は活動の一部を垣間見れます〜!


成果作品 1

『色うつり』

村主あかり『色うつり』2:35
村主あかり『色うつり』2:35

築地の波除通りに、青い庇屋根の際立つトラットリアがあります。向かいの歩道からしばらくの間カメラを回すと、色を引き寄せるように、また解き放つように、そして見事な演出だと思わせんばかりのドラマチックなシーンが連続的でなお多様に展開していきます。この時この場所の率直なドキュメントでありながら、映画あるいは長編への期待を見出された村主さんの作品は、画面および画角内に「対象を待つ」という観察方法の成果です。

野村叔子先生コメント

映画をつくるとき、「当て書き」とよばれるアプローチがあります。ある特定の役者さんを想定しながら脚本を執筆するのです。例えばその「当て書き」を都市を当てはめることは可能か?あるいは偶然撮影した素材から映画をつくることは可能か?都市を対象に表現をするとは、作り手に新しい視座をもたらしてくれるかもしれません。

成果作品 2

『イメージ図(月島、築地、勝鬨)』

大寺太郎『イメージ図(月島、築地、勝鬨)』3:00
大寺太郎『イメージ図(月島、築地、勝鬨)』3:00

月島、築地、勝鬨で撮影したもの・ことの13項目を「イメージ図」なる映像の地図に落とし込んだ大寺さんの作品です。折り目を付けた紙面と、3分を定めた尺と、この二つの支持をもって巧みに構成されています。音声の扱いも面白く、5. 真横から見たグラフィックとテキスト化されつつ、これを展開したビデオには「これ動画で撮るの?」「うん」という会話が収録されていたり、全体が投影(上映)によるためプロジェクターのファン音も聞こえます。

野村叔子先生コメント

手法開発。都市を散策し、カメラを回しながら重ねる思考は、机上では生み出されない着想を得られます。地図という形式に、記録という情報を委ねる。都市表現という授業は映像制作者の、手法開発の場にもなっているようです。

成果作品 3

『flakes』

山本輝『flakes』2:27
山本輝『flakes』2:27

山本さんは3DCGを使い、ある家屋とその近辺の観察記録(写真)から抽出した窓、庇、手すり、ダクト、ターレ(三輪の運搬車)、自動販売機、等々の小片をモデリングして、それらの振り当てられた位置ならびに場所を再現しています。ここに建物の壁面は描かれていません(透明)。それでも影によって外形を垣間見ることができます。また、動いて重なり変形するシルエットは「この辺」をよく見ること、そして知るための糸口となりそうです。

野村叔子先生コメント

都市表現の成果作品に、3DCGでの制作がありました。
この成果作品の特異点はは、まるで「都市をスケッチ」するかのように、3DCGによってイメージを定着させる点でしょうか。

成果作品 4

『レム睡眠』

松尾侑音『レム睡眠』3:33
松尾侑音『レム睡眠』3:33

松尾さんは「自分が写真で撮りがち」なロケーションをそのまま、すぐさま動画でもとらえておくことを心がけて都市空間の映像素材を集め、同一のシーン(一画面)に写真と動画のショットが混在する映像作品を制作しました。シーン毎にこの二つの比重は異なり、また揺らぎもしますが、ほとんどの場合で明確な差を示しません。人や風の動きが認められる(静止画とのズレが生じる)時、ごくわずかに、境界が可視化される機会に出会うことができます。

野村叔子先生コメント

写真と動画。写真について考えるときに、動画を利用したり、また逆もしかり。動画と写真の関係は、その歴史的な発展から離れて、我々制作者によって対等な手段となりました。映像学科が内包する写真領域と実写領域を横断する交差点の一つが、都市表現なのかもしれません。

成果作品 5

『たてのみえかた』

丹羽蓮一郎『たてのみえかた』2:00
丹羽蓮一郎『たてのみえかた』2:00

スマホカメラでの素材収集を「縦撮り」にしぼって、形式的かつ膨大なクリップの編集・構成に取り組んだ丹羽さんの作品には、広げ方(ワイドにすること)のモチベーションが促されています。複数のディスプレイやスクリーンによる映像空間的な展開も視野に入れながら、16:9のきわめて画面らしい一画面へのアプローチを持って透かし重ねられ、満たされた場面の濃淡(不透明度合い)は美しく、また場所が内包する色々な時間で都市が描かれています。

野村叔子先生コメント

ホックニーが示したコラージュによる映像フレームの拡張も、VRによる360度撮影が可能になることで、その価値は「何を撮るか」に収斂しつつあります。しかし、映像には「何を撮るか?」ではなく「どう撮るか?」が制作者に問われている(と思うのでした)そして、「どう編集するか?」。まだまだ芳醇な表現の余白を感じます。

成果作品 6

『休憩時間』

箕浦ひな『休憩時間』3:55
箕浦ひな『休憩時間』3:55

箕浦さんは都市にある緑地や草地を主に撮り歩いていたと記憶していますが、月島のとある公園を撮影中に「おじさんの休憩時間」が紛れ込んだ、この機会(休憩が終わるまで)を小一時間ばかり録画し続けました。トリミングやカットはほとんどせず、速度コントロールによる短縮(平均すると15倍速)で尺作りをしています。その結果、画家スーラの点描による絵画的魅力が見出され(篠原先生の講評)、タイムラプスの記録性と表現性を深めています。

野村叔子先生コメント

映像には偶然性がつきもの。偶然、「写ってしまう」ことを時に排除したり、取り込んだり、受け入れたり。作家としての姿勢が問われます。私は偶然性が美的な価値観を獲得するには条件があると考えます。その条件は「フレーム」があること。たとえば放送事故が面白さを獲得するには、事故がおきないように徹底した計画があるから(だと思うのでした)

今回は以上となります。のちに授業アンケート結果についても紹介予定です。それから、他の先生の総評も掲載できるかもしれません。

(山崎連基)


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