課題総評 / 都市表現の2024年
執筆者 橋本直明 (建築家 武蔵野美術大学映像学科非常勤講師)
都市表現の授業は、まず歩くことから始まる。都市を歩き、出会った風景の前でカメラを回す。予期しないものが映像のフレームに入り込んでくる。あるいはずっとそこでカメラを待っていたものとの邂逅。写真や動画に写る未だ何者でもないものたち。それは映像表現の新しい可能性の種子だ。
都市空間をカメラで捉える。そのためには5秒、10秒といった切り取りではなく、最低1分、さらに続けてもう1分、と長めにカメラを回すよう話をしている。5分間回したっていい。回し続けたら何が見えてくるか。それは空間の変化だ。フレームの中の状況の変化、そしてカメラを回す意識の変化。
普通にカメラを回すなら冗長とも言える長さだろう。しかし都市の時間からしたらそれもほんの一瞬。都市表現を受講した学生たちは、カメラを持って都市を歩く中で、この時間の感覚を体験できただろうか? そしてこの長くもたった一瞬の時間感覚をどうやって3分間の映像作品の中に表現すればいいのか、それぞれにもう一度問いかけてみたい。
今を記録することと今を表現すること。最終作品の講評の時、頭の片隅でそんなことを考えていた。学生それぞれの作品はひとりひとりの映像表現ではあるが、都市映像という大きな括りで見えれば、そのタイミングでしか撮れない都市風景の貴重な記録でもある。例えば2017年の都市表現作品には移転前の最後の築地市場が記録されていた。2020年の作品にはマスクをした人々が距離を取って歩く姿が写っていた。コミュニケーションの距離の変化が表現にも現れていた。さて、2024年。今年の都市表現の作品には何が記録されていたのだろうか?
傾向としては街の人々を捉えた映像よりも、マクロに都市を捉えた作品が多かったように思う。授業日がまだ暑さの残る平日の午後という影響もあったかも知れない。雲が夏の終わりを伝えていて空の広さばかりが目についたせいでもある。築地場外市場に賑わいが戻ったものの、殺到する観光客でオーバーツーリズム状態の都市空間とは距離を置きたかったというのもあるだろう。それ以上にやはりコロナ禍以降のコミュニケーションの距離に対する意識の変化が、都市との向き合い方にも影響を与えている気がする。対象に密着することなく俯瞰的に都市を観測している。ある意味では希薄だ。当然に場所の読み込みも浅い。しかしそれを嘆くよりも都市空間をフラットに映像素材として扱う表現の中に、今を読み取る鍵を探したい。
見えないものを見えるようにするのが芸術表現が果たす役割のひとつだとすれば、見えない都市の姿を視覚化することは極めて都市表現的だ。例えば築地場外の雑踏の足元にあるマンホールに買い物客が目を落とすことはないだろう。働いている人でさえ、あたり前にあるものだから意識の外に追い出されて「見えないもの」になっている。それでも下水道、上水道、電話ケーブル、それぞれのマンホールには機能があって地面の下に隠された複雑精緻なネットワークこそが築地の街を動かすプラットフォームだ。これを映像で視覚化できたら面白い。しかしこの見えていないものを映像体験として伝えるには単に情報を展示するのではない表現手法の発明が求められる。上映作品という授業の枠組み自体も組み替える必要もあるかも知れない。
都市表現の授業では街を歩くために地図を配っている。課題の対象地の映像的名所を手っ取り早く体験するためのマニュアルではあるが、都市の構造や地形を読むためのツールとして意識してほしい。地図はただの紙ではない。
かつて海だったこの場所が今あるような都市になるまでの過去から現在まで連なる空間の時間軸をCTスキャンのように輪切りにして表示したものが地図なのだ。時間と空間の層を平面化することでわかりやすい見取り図になる。現実世界をカメラで捉えてスクリーンの上に投影することで世界を読み取れるようにしたのが「映像」だ。であるなら、映像は現実世界を辿るための地図とも言える。今年の都市表現で提出された映像を地図化した作品はその意味でも極めて野心的な試みだった。
(橋本直明)