都市表現#過去作品紹介その1
都市表現を担当している野村叔子です。今年度の都市表現が終わって一月半が経ちました。
昨年度までは芸祭期間明けの11月から始まる授業だったので、例年なら前半の街歩きを消化し、フィールドワークの成果を映像作品へと昇華させるべく、制作に向かい始めた頃です。
そう、都市表現は寒い時期に行われていたのでした。
近年は暖冬でこそあれ、朝早くに水際エリアに集合するというだけでも印象強く、「初冬の候」的なニュアンスは、長い間、都市表現作品の質でもあったと思われます。
今年は「残暑厳しい折」の開講となりました。
来年度は「陽春の候」に街を歩き、撮り、作品化する運びとなりそうです。
都市表現が、フィールドワークの対象地としてきた築地や月島の所々のみならず、折々の時間にたずさわるなら、より深く〈場所〉を考察できるでしょう。
その考察は映像表現に、制作者(受講生)に、より広い視野をもたらしてくれるものとも思っています。
これまでとこれからの表現(者)の結び合うイメージが〈開く〉期待を込めて、アーカイブから少しずつ作品紹介していきます。
(来年度の受講ならびに参加の参考になればうれしいです!)
2023年度作品
都市表現で制作する映像作品には主人公が登場しません。
主人公は都市であり、都市を捉えるわたしであると言い換えてもいいでしょう。
この作品では、その特異な物語を考察する際に〈言葉〉に着目し、思考が見える(読める)形式が模索されています。
2022年度作品
映像における縦横比(アスペクト)の検討はとても重要です。
きわめてワイドなこの作品は、その形が場所の様相であり作者の見方である、ということを示してい(ると思い)ます。
タイトル(キャプション)には日付があり、観察の継続性をとおした時間表現への展望も伺えます。
2021年度作品
「写真のような動画」に映像表現の醍醐味が感じられる作品です。
写真らしいフレーミングの中に写り込んだ非常に小さい、きわめて細かい物事の動きを認める時、写真と映画、または別の二つの領域を行き来する(間の)表現があることを示唆してくれます。
2020年度作品
コロナ禍の街をどう捉えたのかがよくわかる作品です。
対象との距離(遠くで)はこの時の貴重な記録であり、当人の現れであるとも言えるでしょう。
映像にどう撮るかを問われた時、特に都市表現では、どこから撮るかという観点が模索されるべきかもしれません。
2019年度作品
月島の細い路地の「幅」が、このアングル(煽り)でこそよく表現された作品です。
カメラワークは確かなコンセプトになり得ます。
偶然の雨もいい感じですが、2019年度の作品には雨天の様子が、他にも多く映し出されていました。
2018年度作品
この作品は、「出来事を待つ」という記録の仕方が、映像表現として成立することを教えてくれます。
フレームに誰かが入って来て、出て行く、それだけではありません。
ここに写る人々は作業の途中で何か思い、思い出したりしている(のが見える)のです。
「撮れた」ことの凄みを感じつつ、手法として享受され得るものだと考えています。
2017年度作品
フレーム際をぼかしているのが特徴的な作品です。
映像編集による後付けですが、都市空間の構造や暗部にも見えます。
都市表現に限らず、実写にはそのタイミングでしか撮れない貴重な記録性がありますが、どう見たかを確かめるために編集があり、編集の仕方こそ眼差しである、と私は思うのでした。
2016年度作品
なぜ築地や月島なのか、受講生の多くが抱く問いでしょう。
街歩きではより海沿いのエリアにも足を運びますが、水際へ(撮りに)行くと、また受講生の多くが自ずと、普段の生活や活動環境との違いを肌で感じていることがわかります。
そうした感覚や印象は、透過や反転(編集)で紡がれた作品にも表されていました。
2015年度作品
街歩きで見つけた商店を模型で再現し、組み立てるまでを尺に落とし込んだ作品です。
フィールドワークの成果は撮影した実写素材をまとめることだけではありませんが、それでも映像作品にする、ということにこの授業の根幹があること、また、取り組みの意気も感じます。
2014年度作品
配管同士をつなぎ合わせる際に使用するL字型の継手のことを「エルボ」と呼ぶそうです。
ちなみにT字型のは「チーズ」(!)です。
都市表現を最も長く担当されている橋本先生は建築家であり、受講生の映像素材から〈建築〉を教わることも本授業の魅力です。
それをまた映像作品に落とし込むことで、多様な表現が生み出されてきました。
私は担当に加わってからまだ浅いですが、300を超える作品データ(データ化されてないものが「倍」はあると思われます。。)を手元に、都市表現という授業の懐をひしひしと感じています。
できるだけ近いうちに、その2にて。
(野村叔子)