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音もなく動くもの(スクリーン・06)
「薄っぺらいもの(スクリーン・05)」の最後に書きましたが、その記事で紹介した川端康成の『名人』の一節に、私がどきりとしたと言うか、はっとした部分があるので、今回はそれだけに絞ってお話ししたいと思います。
静の描写
二日目の対局室は、明治時代のさびのついたような二階で、襖から欄間まで紅葉づくめ、一隅に廻した金屏風にも光琳風のあてやかな紅葉であった。床の間に八つ手とダリアが活けてある。十八畳の次の間の十五畳まで明け通しなので、大振りの花も目に障らない。そのダリアの花は少ししおれていた。稚児髷の少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。
大竹七段は黒羽二重の一重に絽の羽織の紋服だが、今日の名人は少しくつろいでか、縫い紋の羽織だった。盤は昨日のとはちがう。
(川端康成作『名人』新潮文庫・p.35)
細かく見てみます。
・「二日目の対局室は、明治時代のさびのついたような二階で、襖から欄間まで紅葉づくめ、一隅に廻した金屏風にも光琳風のあてやかな紅葉であった。床の間に八つ手とダリアが活けてある。十八畳の次の間の十五畳まで明け通しなので、大振りの花も目に障らない。そのダリアの花は少ししおれていた。」:
ここでは、「薄っぺらいもの(スクリーン・05)」で触れたように、三次元の立体的なスクリーンたちと、二次元的要素(平面性)の強い薄っぺらいスクリーンたちが列挙されています。
・立体的なスクリーンたち:襖、欄間、屏風、畳、盤
・薄っぺらいスクリーンたち:紅葉、八つ手、ダリア・花(花弁)、扇、盆、二重(布・織物)、絽(織物)、羽織、紋服
描かれているのは、色が感じられて華やな、広義の「スクリーン」たちです。華やかという意味で、にぎやかですが動きはありません。ここにあるのは、対局の舞台となった場所の様子の描写だけです。
そうした「スクリーン」の数々がやや長めの段落の大半を費やして列挙された後に次のセンテンスが来ます。
動を静に転じる
・「稚児髷の少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。」:
ここで初めて動きが出てきます。「茶の入れかえに来る」少女の出入りする様子です。少女以外に「人の出入りはない」という否定形で書かれているために、動きが消されて静かな印象を与えているとも言えるでしょう。もしそうであれば、すごいテクニックだと私は感心しないではいられません。
僭越ながら、川端先生の文をいじらせてもらいます。
「稚児髷の少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけである。」
仮にこのように書かれていれば、「茶の入れかえに来る」という動きが目立ちます。「ある」で終わっているからです。
その動きを封じるというか抑えるために、「茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。」と書いて、「ない」という否定形で文を終えて、動きが目立たないようにしている。つまり、動を静に転じている。そんな気がしてなりません。
この華やかな「舞台」の主役は「花かんざしをして」いる「稚児髷の少女」ではないのです。レトリックによって花で飾った少女の動きを動きと感じさせないで、まるで少女への邪念を払うようにして、次のセンテンスへとうつります。
動く静かさ
・「名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。」:
突然「静かさ」という言葉が出てきて虚をつかれます。私がはっとしたのはこの一文なのです。初めて読んだ時には、おそらく「あっ」と声をあげたのではないかと思います。
しかも「動く静かさ」なのです。
世の中には「動と静」という慣用句があり、「動静」という熟語が頻用されるように、「動と静」は相反する対(セット)として受けとめられがちな語でありイメージと言えます。
したがって、この「動く静けさ」とは「動いているのに静かだ」と取れるでしょう。これと「写る」が組み合わさって「写って動く静かさ」と書かれているところに注目しないではいられません。
さらに言葉が加わって、「白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ」となると、これはもはや短詩ではないでしょうか。器用な人なら、このフレーズから俳句か短歌をこしらえるにちがいありません。
散文的に言うと、光沢のある黒塗りの盆に白い扇が写って、それが静かに動く――ということですね。
白扇 静かにうつし 黒の盆
これでは、いかにも芸がなさそうです。しかも動きがない。
白と黒、黒と白
「名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。」を詳しく見てみます。
・「白い扇」、「黒塗りの盆」:
ここにある白と黒は碁石を連想をさせますが、川端の計算であることは間違いないでしょう。川端はしばしば細部にさりげなく冴えた技巧をしのばせます。
・「氷水をのせた黒塗りの盆に写って」:
「写って」いるのはもちろん影、つまり映った像です。黒塗りの盆が鏡に転じているのです。
『雪国』の冒頭の汽車の場面を思いださずにはいられません。そこでは、外の闇を背景にして窓ガラスが鏡に転じています。「氷水をのせた」がさらに『雪国』の寒い夜を連想させます。車外の寒さをさえぎり、車内との温度によって曇った窓ガラスがここに「二重写し」(『雪国』にある言葉です)されているかのようです。
どうしてここで『雪国』の一シーンを取りあげたのかというと、共通して鏡に転じた鏡ではない物と、そこに「うつる」影があるからにほかなりません。
今述べた『雪国』の冒頭のシーンについては「映」写、移・動(スクリーン・02)をお読み願います。
引用文にある色を順に見てみます。
紅、金、紅、白、黒、黒
明るく暖かい色の中で、名人の白と大竹七段の黒が、静かに立つ気がします。イメージを喚起する紅白があるのも興味深いです。『名人』というおびただしい数の文字から成る作品の中で、色に注目しながら白と黒を目で追うのも面白い体験になるにちがいありません。
私が目を引かれたのは、たとえば「短い口ひげにまじる白毛」(p.22)、「大きい黒子が二つ」(p.23)です。p.22からp.23には、モノクロの写真にうつった影(像)の描写が出てきます。ここは原文にあたっていただくしかありません。ぜひお読みください。
物ではなく影の動き
ここで、このセンテンスに出てくる動きの主語に注目してみます。
「稚児髷の少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。」では、動いているのは「少女」です。
一方の「名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。」では、動きの主は「名人の白扇」なのですが、よく読むと、「名人」という人ではなく、また「名人の白扇」という物でもなく、「名人の白扇」のうつった「像・影」が描写されているのです。
人ではなく、物ではなく、物の影の動きが描かれている――
扇そのものではなく、扇の影(像)が描かれてでいるところが川端康成らしい描写だと私は思います。「かげ・影」と「うつる・写る・映る・移る」が大好きな私にとっては、読んでいて震えてしまうくらいの素晴らしい表現なのです。
実物ではなく映った影
単なる影ではなく動く影
単に動く影ではなく静かに動く影
音もなく動く影
黒と白
黒い鏡と白い像
鏡像を見つめるたった一人の観客である「私」
黒と白を白と黒に転じてみましょう。ネガをポジに転じるのです。フィルムという薄いスクリーンを銀幕というスクリーンにうつすのです。
音のない影を見つめる「私」
トーキーではなくサイレントの画面を見つめる「私」
夢、思い、映画
音もなく動く影とは、たとえば思いであり夢であり映画ではないでしょうか?
思い(思考や意識や夢想と言ってもかまいません)や夢においては、像に音や声がともなう場合もあるでしょうが(私の印象では像に音声がともなわない場合が圧倒的に多いです)、さらに、うつつ(現実)のように像と音声が常時セットになっている(同期している)わけではなさそうです。
思いや夢においては影の動きと音声とは別個のものとしてあるのではないでしょうか。現実のように同時に起こっているのではなく、つまり同期しているのではなく、動きには動きの文法があり、音声には音声の文法があると比喩的に言うこともできるでしょう。
個人的な印象を言うと、思いや夢で優勢なのは動きであれ静止した光景であれ視覚的な像です。現実と同様に、思いや夢でも視覚的な像は残ったり持続しますが、音声は片っ端から消えていきます。もし音声が残ったり持続するとすれば反復するという形を取りそうです。くり返される声や音楽の記憶のように。
*
とはいえ、今述べたのは私が夢を思いだしながら書いた話にすぎません。頭の中を覗けないかぎり、夢も夢の記憶も他人と共有することはできません。
他人と共有するためには、各人の夢の記憶を言葉(音声)や文字に置き換え、言葉(音声)として言葉の文法にしたがって加工や編集をしたり、文字として文字の文法にしたがって加工や編集をするしかありません。
夢 ⇒ 夢の記憶 ⇒ 言葉の文法にしたがっての加工や編集
⇒ 文字の文法にしたがっての加工や編集
夢を言葉や文字にすれば、他人と共有できるでしょうが、共有できるのは夢ではなく言葉であり文字である点を失念するわけにはいかないでしょう。別物であるだけでなく、各人によって恣意的に改変(加工や編集)された作り物なのです。
*
一方、映画は人のつくった影(像)と音声から成ります。映画においては無声映画(サイレント)が先でトーキーは後発のようですが、それは技術的な理由があったからだと聞いたことがありますが、詳しいことは知りません。
いずれにせよ、私にとって、映画における音声は後付けっぽく、取って付けたものだというイメージが強いです。特に、効果音の過多な演出や、いかにもその場を盛り上げるような音楽が流れると、作為を感じて興醒めします。これは偏見だとも思いますけど。
私の印象では、映画においても、影(映像)と音声は別個のものとしてとられ(撮られ・録られ)、別個のものとして編集や加工されているようです。作り物なのです。
そもそも、映像(光学的なイメージ)と音声(波・振動)は同じ器械で「とる」ものではなく、同じ媒体(フィルムや磁気テープ)で「おさめる」ものでもなく、同じ帯(トラック)を走るものでもなさそうです。デジタル化されるさいには、同じなのかもしれませんが。
いずれにせよ、私はこの違いに敏感でありたいと思います。
影を撮る、音を録る
そういえば、映画において映っている物や人や状態と同時に音声を「とる」のは至難の業だったという話を見聞きした覚えがあります。カメラ(キャメラ)がやたら大きな音を立てたとか、同時録音が技術的に可能になったのはずっと後のことだったとか……。
初期のテレビ放送でも、ラジオを追随した音声中心の番組はまだしも、ドラマや手のこんだバラエティーを生の音付きで生放送するのは技術的にかなり困難だったという話を聞いた記憶があります。うろ覚えなので間違っていたら、ごめんなさい。
影には音がない。影が動いても音はしない。
音声は影としてうつらない。
影をうつして残すのは比較的容易。
発せられた瞬間にどんどん消えていく音声を良好な質のものとして残し再生することは、かつてはかなり困難だった。影(映像)を残すほうが比較的容易だった。
たとえ影(映像)と音声が同時に知覚されても、別個の現象である影(映像)と音声は、別々に「とる・撮る・録る」しかない。
別々にとった影(映像)と音声を、自然に見える形で同期させて再生するためには、それぞれを加工したり編集したりして「合わせる」必要がある。
ということでしょうか。
*
身のまわりに見える静止画像には音声が付いていません。写真のことです。たとえ動画であっても、うつされた動きと同時に収録された音声が同期して再生されていることは意外と少ないようです。
動画に音声が付いていても、映像とは無関係のものである場合が多いという印象があります。たとえば、CM、PV、MV、ニュース映像。
音声と映像が同期していなくて別々なのですが、そう思わせないところに演出のテクニックがあるのでしょう。
というか、音声と映像が別個に流れていることに私たちは慣らされている、あるいは、ちぐはぐな「ずれ」を意識しないで、むしろ当然のものとして視聴するように馴致されているというべきでしょう。
加工され編集された人工的な映像と音声に慣らされた私たちは、そこにあるはずの、ずれと隔たりに鈍感になっている気がします。
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動画には次々と場面が変わる映像が多いようですが、切り替わる映像に同時収録の音声を付けるのは不可能に近いのではないでしょうか。人がその意味や流れを取れる形で音声を再生するのには時間が掛かるからでしょう。
そう考えると音声というのは、いや音声の処理というのは、実にやっかいなものだという気がしてきました。映像の処理のほうが、はるかに容易で楽なのではないかと想像します。
映像は、それがたとえ瞬時のものであっても、イメージの喚起力は強いです。切り取られた一瞬の一場面を見ただけで、そこに流れている持続したストーリーを読み取ることさえあります。
一方、音声は、持続した時間を掛けて再生しないと、無意味な音の断片としてしか聞こえないようです。音声は時間に拘束されているということでしょう。
両者の違いは途方もなく大きいと思います。音声と映像を同列に扱うことには無理がありそうです。
文法
思いは、とりわけ視覚的なイメージに主導された思いは、断片的であり、その移ろいは瞬間的であったり高速度であったりする気がします。走馬灯のイメージが好例でしょう。
それに対し、音声、とりわけ声が一貫した意味をそなえた発話にまでなると、それが発せられ終わるまでには時間が掛かります。ちんたらしていて、もどかしいのです。
これは夢においてもそうだろうと私は想像しています。とはいえ、思いや夢がどんなものは他人に見えませんから、人それぞれと言うべきでしょう。
さっき自分がいだいた思いも、あるいはさっきまで自分が見ていた夢も、それを他人に伝えようとするなら、記憶をたどって想起するしかありません。つまり、言葉(音声)や文字にするしかないのです。
思いも夢も事後に言葉で語ったり文字として記述するしかない。人同士で確認し共有できる思いと夢は、言葉と文字なのです。
夢 ⇒ 夢の記憶・思い ⇒ 夢の語り・言葉(音声)
⇒ 夢の記述・文字
*
夢、思い、話し言葉、書き言葉・文字――私にはそれぞれが別個の文法(比喩です)を持っている気がします。たがいに似ていますが、おそらく別物なのです。
この中で、書き言葉・文字がいちばん優勢なのは間違いありません。文字は、話せば(放せば・離せば)その場で消えていく音声と違って、消さないかぎり残るからです。
残った文字は確認できるし共有できます。保存して新しい世代にそっくりそのまま伝えることもできるでしょう。
文字として書かれた夢は最強なのです。いかにも本物っぽく見えるし、本当らしく感じられます。夢とは思えないほどに。
*
とはいうものの、そうであるのは、ある意味学習の成果ではないでしょうか。
夢語りや夢物語は、太古から受け継がれてきた形式でありジャンルなのです。
夢は共有できないから、昔々から映像(たとえば絵)や言葉(音声)や文字に置き換えられてきた。つまり、夢語りや夢物語には長い歴史というか長い伝統があるのです。
人類は、夢語りや夢物語というジャンルを長い時間をかけて学習して今に至ると言えるかもしれません。現在ある「フィクション」や「作品」と呼ばれているもののすべてが夢語りや夢物語の延長上にあるように感じられます。
夢を絵にすれば、それは絵。夢を言葉(音声)で語れば、それは言葉(音声)。夢を文字で記せば、それは文字。夢を映画にすれば、それは映画。
夢は夢を引用して夢を模倣し、絵は絵を引用して絵を模倣し、言葉は言葉を引用して言葉を模倣し、文字は文字を引用して文字を模倣し、映画は映画を引用して映画を模倣する。
*
これもまたうろ覚えで恐縮ですが、夢あるいは夢想について、確かガストン・バシェラールが翼を例に取り、次のようなことを書いていた記憶があります。
現実に存在する翼をもちいて飛ぶ鳥のように、人の夢想に登場する鳥以外の空を飛ぶ生物――たとえば人や馬や蛇や竜――が翼をそなえていたとしても、夢想の中では翼を動かして空を飛ぶのではない、とか。
夢とうつつ(現実)とでは、別個の文法や論理や仕組みが働いている、つまり夢の中では現実で働いている物理的な法則が働くわけではない、というふうに私は理解したのですが、そもそも読んだ記憶が間違っていましたら、ごめんなさい。
一方的に対象を見る
話を「名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。」に戻します。
このセンテンスの終わりにある「観戦は私一人だ。」は、小説を書くさいの川端のスタンスがよくあらわれていると思います。
一人で一方的に(一方向的に)黙って対象を見ている――という状況を書く時に、川端康成という書き手は最も筆致が冴えるのです。
その時の川端は音もなく動く影を見ている気が私にはします。『雪国』の冒頭と最後の妙な静けさ、見る対象とかかわろうとはしない島村という視点的人物の一方向性がユニークであり印象的なのです。
川端的存在は、参加するのではなく傍観するのです。まるで夢の中のように、または映画を観るように。
この点については、「長いトンネルを抜けると記号の国であった。(連想で読む・02)」と「『雪国』終章の「のびる」時間」に書きましたので、興味のある方はご覧ください。
後者の記事では、『雪国』において川端が動きと時間をどのように言葉で処理しているか(描写しているか)に触れています。
描写のまとめ
「二日目の対局室は、」で始まって「観戦は私一人だ。」で終わる一段落を、説明的にまとめてみます。
対局の舞台に物が列挙されている静の描写
↓
動を抑えた静の描写
↓
音もなく動くものの描写
*
静と動に注目すると、見事な展開をたどっていることが見て取れます。というか、少なくとも私にはそう感じられると言うべきでしょう。
この段落の最後の二センテンスで連想したのは影です。詳しく言うと、影と夢と映画なのです。
そこで、うつっているのは、かげである。かげがうつり、うつろうようすには音がない。
物から切り離されて、うつっている物の影には実体はなく、その影が動いたとしてもその影の動きには音がない。
影には影の世界と文法があり、音には音の世界と文法がある。
影の沈黙。沈黙の影。
白扇 うつり揺蕩い 黒の盆
似ていない別物同士
私には声と文字はまったく別のものに感じられます。そもそも似ていません。両者を似ているとか、つながっているとか、はたまた根っこが同じだと思うのはヒトだけではないでしょうか。
そもそも似てもいない別物同士をつなげるのはヒトの常套手段です。
別の例を挙げます。
・猫は猫ではないし、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかりとおっている。
「ん?」ですよね。失礼しました。
・「猫」は猫ではないし、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかりとおっている。
意味が変わりましたが、上の文(文字)とその前の文(文字)を音読しても、その違いは相手に伝わりません。私は約物の一つである鉤括弧も文字だと考えています。「 」は、大切な役割を果たす文字なのです。「猫」と猫が異なるのが文字の世界、「猫」と猫が同じなのが言葉(音声)の世界です。
・「猫」という文字は猫というものではないし、猫というものに似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかりとおっている。
「猫」という文字、猫というもの。現実世界では似てもいない別物同士をつなげるという、この状況というか現象は、ヒトだけに通じるギャグではないでしょうか。
「猫」が猫だとされて猫としてまかりとおっているのがヒトの世界なのでしょう。このギャグを、現実世界に生きているうちの猫に聞かせても見せても、通じそうにはありません。そっぽを向かれるか、引っ掻かれるのが落ちです。
猫は文字の世界という白と黒の世界には興味がなさそうです。白と黒の世界はヒトのこしらえた仮想現実なのかもしれません。ヒト以外の生き物に通じないのも無理はありません。
半分冗談はさておき(半分は本気です)、ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
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