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His/Her Song

 今回は、2月24日に亡くなったロバータ・フラックさんを追想する記事です。かなり前に書いた文章を改稿したものです。

 ロバータさんの歌った曲がきっかけとなり、私はいろいろなことを考え、学びました。感謝の気持ちでいっぱいです。


Killing Me Softly……


Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)Roberta Flack

 この歌、大好きです。ピアノに向かってスタンバイして、すぐに出だしがタタタタっときて軽快。声もクリアでいてしっとりとした艶があって、いい感じ。

 この楽曲のいろいろなバージョンとかカバーを聞いた覚えがあります。CMでこの曲が流れた記憶もあります。

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 この歌を検索していると、面白いことに気づきます。タイトルが微妙に違っているものがあるのです。フランク・シナトラが歌うと Killing Me Softly となり、ペリー・コモだと Killing Me Softly (with Her Song) となります(オリジナルであるらしい Lori Lieberman のバージョンでは Killing Me Softly with His Song です)。


 律儀ですね。俺は男だ、と主張しています。タイトルだけじゃありません、歌詞を見ると、ちゃんと he が she 、his が her 、him が her になっているのです。

 あと、出だしがすごく遅いのです。ロバータ・フラックのいきなりタタタタっとくるのと大違い。シナトラやペリー・コモだと、歌い出すまでに20秒から50秒もかかるのです。

 昔はのんびりしていたからでしょうか。単純にそう思ってしまいますが、アレンジはそういう簡単なものじゃない気もします。ひょっとして一曲を長く持たせる必要のある、ディナーショー向けのアレンジなのかもしれません。

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 洋楽における性差と言うのは、薄々感じていたのですが、意識して歌詞を見ると、不思議に感じられます。何しろ、日本では演歌をはじめてとして、ばりばりの男性がばりばりの女性の曲を歌っているのです。その逆もあります。水前寺清子さんなんか、男心を歌っていました。

 いつだったか、こういうことが気になったときに、アメリカ人と付き合っている日本人に聞いてもらったことがあります。

 そのパートナーさんの話では、男性が女性の歌を歌うなんて(そして、その逆も)、アメリカではありえないという返事でした。強く否定された記憶があります。

 どうやら、アメリカだけでなく、英国でもヨーロッパでもそんなふうだという気がします。

 なぜなんでしょう。WHY? ビコーズ、男が女の歌を歌うなんて変でしょ。なんて素っ気ない答えが返ってきそうです。

 そりゃそうなんですけど……。逆に、なんで、日本では男が女の歌を堂々と歌うわけ? なんてツッコまれたら、どうしましょう……。

 論理的に説明できそうにはありません。しどろもどろになるのが目に見えています。

性差、文法、私は猫


 一つ思うのは、英語は性差がうんと少なくなってきていますが、ヨーロッパの言語には女性名詞・男性名詞があったりして【※中性名詞まである言語がありますね、文法上の性は名詞だけでなく形容詞や冠詞にまで反映されます、詳しいことはウィキペディアの解説「性(文法)」をご覧ください。】、性差という縛りが言語にがっちりとあらわれているからかもしれません。それと関係があるような気もします。

 たとえば、「私は幸せです」は、フランス語だと、男性は「Je suis heureux.」、女性は「Je suis heureuse.」となり、もろに性差と性別が言葉に出てしまうのです。

 英語と違って、「私は猫です」にも、性別があらわれるはずです。フランス語では、雄がchat、雌がchatteですから。ちなみに、夏目漱石の『吾輩は猫である』のフランス語訳は「Je suis un chat」です。性別があらわれています。

 ドイツ語でも、「私は日本人です」は、「Ich bin Japaner.」 (男性)と Ich bin Japanerin. (女性)という具合になります。ある意味、窮屈ですね。こういう言語が母語だとすれば、母語に違和をいだく人もいそうです。

 なお、『吾輩は猫である』のドイツ語については以下のサイトをご覧ください。タイトルと小説の出だしが微妙に異なっていますが、性別はあらわれているようです。

 日本語では「僕、俺、あたし、吾輩」の代わりに「私」を使えば性差や性別は隠れますね。そもそも「私」を省くことさえできるのですから、すごい言葉だと思います。私は日本語で満足しています。

 以上は、あくまでも個人の意見および感想です。 

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 見つけました! 以下の動画では、マイケル・ジャクソンが堂々と Killing me softly with his song と歌っているのですけど(歌は0:29くらいから始まります)、この動画についているたくさんのコメントが興味深いのです。性差を問題にしています。

 嫌な感じのコメントも多いです。要するにマイケルを非難しているのです。もちろん、この点に関して好意的であったり支持しているコメントもあります。関心のある方はご覧ください。

 16歳だったマイケルのこの歌、とても好きです。感情が、こう、ぐっと伝わってくるような熱唱。うまいわ。これこそ、Killing me softly with HIS song 。惚れ惚れします。

You've Got a Friend


 一方で、以下の楽曲のように、男女間の愛ではなく、友情を歌うとそのままの歌詞でカバーが可能になりますね。

You've Got a Friend(君の友だち) 

 確かに、この楽曲についてのウィキペディアの解説を読むとカバーがめちゃくちゃ多いです。そりゃあ、そうでしょう。friend なら、男女の別なんて関係なし。

 これなら文句は言われないでしょうね。マイケル、やっぱりうまいわ。

振りをする、演じる、装う

 
 で、ふと思ったのですけど、日本には歌舞伎という素晴らしい伝統芸能があります。男性が女性を演じることには何ら抵抗はないわけです。そうした要素を歌舞伎から取り除いたら、何が残るというのでしょう。

 宝塚(宝塚歌劇団)だってそうです。女性だけで歌劇を上演するわけです。女性が男性を演じることに何ら抵抗はないわけです。

 振りをする、演じる、装う
 なりきる、なる、である

 キリスト教圏では、男女の間に明確な一線を設けて、その間に曖昧なゾーンの存在を許さないということでしょうか。厳格な二元論と言うか。

 一方で、この国には、クリスマスを祝った一週間後には神社とお寺をはしごするという風土があるのです。きわめて曖昧。

 日本には、性差を曖昧にする素地があるということです。その割には、女性の社会進出がとほうもなく遅れているという、許しがたい摩訶不思議があります。いい意味でも曖昧、悪い意味でも曖昧ということでしょうか。

 曖昧の国、日本。

デュエット、分割、分担


 歌における性差を考える場合にはデュエットを避けるわけにはいきませんね。気になったので、男女のデュエットを探してみました。男女の別々のパートに分かれるものが多いみたいです。いわゆる「デュエット」ですから、当然なのでしょうね。

 このMVの映像が綺麗で好きです。画面が左右に分断されていて、それぞれの映像が勝手に流れるわけですが、二重に分裂していく自分を感じてわくわくします。MVとなると個人的には二分割が限度です。それ以上だと目まいがしそう。

We Don't Talk Anymore

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 こんな歌があったのを思いだしました。幼いころに聞いた記憶があります。

Paul & Paula - Hey Paula (1964)

 恋人の名が、ポール(Paul)とポーラ(Paula)ですよ。a が付いて、女性形。絵に描いたようなデュエットじゃないですか。

 ほかに、Robert(o)(ロバート・ロベルト)とRoberta(ロバータ)や、Mario(マリオ)とMaria(マリア)や、Carlo(s)(カルロ(ス))とCarla (カーラ)のように、oが男性形、aが女性形の例は、まだまだありますね。

 幼い頃にこの歌が日本語で歌われていたのを覚えています。当時は、テレビの生放送でさかんにアメリカの歌を日本人が歌っていました。英語で歌っているのもあれば、訳詞もありました。

 懐かしいです。こういう過去との再会があるのが YouTube の醍醐味なのでしょう。YouTube はタイムカプセルです。

カバー、人称代名詞


 以下は、検索して見つけた Killing Me Softly のカバーなのですが、すごく気に入ってしまいました。ぜんぜん知らない二人なのですけど……。

 性差が表れる歌詞をこの男女のデュエットが歌うと、こうなります。

 難聴(私は重度の中途難聴者なのです)と英語力の不足で歌が聞き取れないのですが、この動画のコメント欄にある「Nevaeh Brown 6年前(編集済み)」というユーザーさんのコメントに、この二人の歌っているらしき歌詞が聞き書きされていました。

 オリジナルの歌詞の人称代名詞を変えるだけで、がらりと違った曲になります。こういうカバーの方法もあるのですね。

 歌詞の中に he-his-him と she-her-her が同居し混在することによって、新しいドラマとストーリーが生まれ、いい意味で別の作品に仕上がっているのです。

 歌詞を文字として眺めているとさまざまな発見があります。声による「うた」を散文(文字)として見るからでしょう。

 最近よく思うのですが、本来は声であった、うたやかたりは分析するものではないのかもしれません。

生き続ける声


 私は新しい歌はもう聞けません。動画の映像を見ながら、流れてくる音を聞くというよりも、健聴な頃に聞いた音の記憶として楽しんでいます。それだけで幸せです。

 Roberta さん、素晴らしい曲を教えてくださり、ありがとうございました。

 あなたの声は、私の中で生き続けています。


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