
文字を書いてもらう
文字は複製だとよく思います。誰が(何が)どこでいつ書いても「同じ」でなければ文字とは言えないわけですから、複製以外の何ものでもありません。
ちなみに、「(何が)」とは機械のことです。
一方で、どれも「同じ」なのかなあ、という疑問も浮んできます。
文字は「同じ」なのではなく、むしろ「似ている」ではないでしょうか?
複製を定義するのが私の目的ではないので、ここは適当にいこうと思います。テキトーという感じの適当です。
「適当」は、辞書にも「いいかげん」なんて、いいかげんな語義があります。その語義での例文は「適当にあしらう」です。
こんな語義を見ると、私は辞書に「適当にあしらわれた」気分になります。
*
人は適当にできていると思います。自分を観察してそう感じるのです。自分一人の観察結果から人類を語るような言い方をして申し訳ありません。
こんなんですから、自分は自己完結的な人間だなあ、とつくづく思います。同時に、やっぱり自分は適当な人類の端くれだなあ、と結論づけないわけにはまいりません。
で、人がどういうふうに適当なのかと言いますと、「似ている」を基本とする印象の世界に生きているからです。
少なくとも私はそうです。
これに対し、道具・器械・機械・システムは「同じ」かどうかの世界にあります。「同じ」かどうかの世界は「はかる」世界と言えばわかりやすいかもしれません。
私がこのところよく使用している図式的なまとめがあるので、以下に引用します。この図式に沿って記事を書いているのです。
*
*はかる:人が最も苦手とする行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。とりわけ機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。
*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。
*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。
*
上で触れた道具・器械・機械・システムは、広義の「はかり」です。人の代りに「はかる」ことに特化してつくられたものですから、「似ている」などという適当な世界にあるのではなく、「同じ」かどうかの世界にあります。
杓子定規とか、いわゆる「機械的な」処理に長けているのです。こうした「はかり」は厳密な意味での複製でもあります。複製でないと「はかり」の「はかった」結果が「まちまち」になってしまうからです。
ここで、杓子定規と「機械的な」の意味を考えてみましょう。
*杓子定規――「杓子」の柄を「定規」として、はかろうとするように融通がきかないとい語義らしいです。融通のきかないところのある私としては、杓子も計量スプーンや計量カップみたいなものだから立派な「はかり」だと思います。二つの「はかり」を合わせた言葉であることは象徴的だなあ、と「杓子定規」という言葉のつくりに感心しています。いずれにせよ、杓子定規というのは、私のイメージでは、例のプログラミングの指示みたいなものです。適当で、いい加減な指示では機械は正しく、つまり杓子定規に動いてはくれません。適切で良い加減の指示をする必要があります。
*機械的――文字どおり「機械」的な動きをするものに冠せられる言葉です。機械に対するヒトの偏見を感じないではいられません。おそらく劣等感の裏返しでしょう。機械はちゃんとつくればヒトよりずっと正確だし、ヒトより迅速に作動するし、だいいち疲れを知りませんから。偏見や劣等感もなさそうです。
*
広義の「はかり」である道具・器械・機械・システムは正真正銘の複製だと言えるでしょう。杓子定規に機械的に作動するように、規格を統一してヒトがつくっているものです。
一方、文字は人にとって「やさしい複製」という感じです。
機械のように「同じかどうか」を基本とすると言うよりも、「似ている」を基本にする人に合わせてくれている、という意味での「やさしい」と言えばわかりやすいかもしれません。
文字は人が日々つかっているものであり、誰もが活字のように「達筆」なわけではありません。
機械がつくった「同じ」かどうかを基本とする文字である活字は、例外なのです。文字の長い歴史のなかで、フォントをふくめ規格の統一された活字が登場したのは、つい最近なのではないでしょうか。
人の書く文字には個人差があります。ちなみに私は悪筆です。
小学生のころから、「おまえの字は、くさび形文字みたいだ」とか「汚くて(下手で)読めない(読みにくい)」とずっと言われつづけて、今に至ります。
*
活字はどうかと言うと、これはヒトが規格を統一してつくったものですから、正真正銘の複製です。つまり、「同じ」かどうかの世界にあります。
とはいうものの、人は「似ている」を基本とする印象の世界に住んでいますから、どう真似ても読みにくい字を書く人もいるわけです。
その一人である私は、かつてワープロ専用機が登場したときには歓喜したものです。おかげさまで、悪筆を人にさらす機会が激減しました。
その代り、悪文をさらす機会が激増しました。ご覧の通りです。申し訳ありません。
今では、パソコンで文字を書くことが圧倒的に多くなりました。パソコン内部にワープロソフトが入っているようです。
私は文字を書いているのではなく、機械に文字を書いてもらっている。これは紛れもない事実です。
ただし、文字は機械に書いてもらっているけれど文章は自分で書いている、つまり作文だけは自分でする、これは死守したいと思っています。
かといって、作文をする機械に興味がないわけではありません。
私は言葉を掛けたり転がしたりするのが好きなのですけど――たとえば「ならう、ならす、ならぶ(文字とイメージ・01)」でやっているように――、こういうことに特化した機械があれば一緒に遊んでみたいです。
話が合いそうです。きっと楽しいでしょうね。