まばらにまだらに『杳子』を読む(05)
ともにふれる、ともぶれ
和語に漢字を当てる。文字がなかったらしいこの島々の言葉の音に、大陸から伝わったと言われる文字を当てて分けて、その文字列をながめる。
すると、意味が重なっているさまが視覚的に迫ってきて(これが文字の力のすごさです)、意味をなす言葉の身振りがシンクロ(共振、共鳴、ともぶれ)しているように感じられます。
私の場合には、小説を読みながら、頭のなかで漢字分けによる感じ分けをしたり、書かれている言葉の身振りが見せる意味のシンクロ感(ともぶれ)を味わうのが楽しみになっています。
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ともにふれる。
ともぶれ、共振れ、共振、共鳴、シンクロ、同期、同調。
私が古井由吉の小説が好きな理由の一つが、ともぶれなのです。
人と人、人と物、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、人が相手や対象とともに「ふれる」さまが、じつにリアルに描写される。私はその筆致にふれたくて古井の作品を読むと言っても言い過ぎではありません。
ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる。ぶれる。ゆれる。
人と物のともぶれ
『杳子』の冒頭の谷底の場面から、人と物とのともぶれを見てみましょう。
ともぶれと言っても、対象が人ではない場合には、ともにふれるというよりも、人が勝手に一方的にふれると言うべきでしょう。この一方的な「ふれる」が、広い意味での擬人だと思います。
(『杳子』p.9『杳子・妻隠』新潮文庫所収)
もっとも、これと似たような「ふれる」は、誰もが日常的に経験しているはずです。トイレの壁の模様、天井の染み、空の雲や星座や月の模様がそうでしょう。
人は何かに別の何かを勝手に見てしまう生き物のようです。この錯覚を利用したのが、映画であり、テレビであり、PCやスマホの画面と言えそうです。
大切なものを忘れそうになりました。文字と文章と書物です。
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人が勝手に一方的に何かに別の何かを見て、ふれて、触れて、振れて、震れて、狂れてしまう――。
こう言えば、身も蓋もない言い方になりますけど、古井の描写する「ふれる」は、その対象の描写が微に入り細をうがつにしたがって、「ふれる側の人」以上に「ふれられる側の対象」が、人と「ともにふれる」さまを呈してくる。そんなふうに私には感じられるのです。
小説における描写は細やかで濃やかになればなるほど、そこに並べられた言葉たちの意味は希薄になり(言葉の指ししめすものたちが遠ざかり)、言葉たちの物質性が濃く強く露れてくる気がします。
すぐれた描写にあるのは、そこにある意味(じつは、その向こうにある意味)ではなく、読む者に働きかけてくる力(そこからこちらにかかってくる力)なのです。
もっとも、これもまた、私が勝手に一方的に文字に別の何かを見て、ふれているだけだ、つまり錯覚にすぎないと言われれば、返す言葉がありませんし、じっさいにはそのとおりなのだと思います。
文字と文字のともぶれ
なお、上の引用箇所では、やたらとルビがふられていることに注目しないではいられません。
ルビのもたらす漢字の異物感、和語に取り憑いたかのような表音文字の憑依感、文字に別の文字を重ねるという類い希な字面、他の読みや意味の解釈も可能であることを匂わせる「開かれた」表記法。
私にとって、ルビをふる行為とその特異な文字の姿は、ともぶれの具現に他なりません。ルビとは文字同士のともぶれなのです。
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古井由吉はその作家活動の初期から「異和感」という表記を頻用してきたのですが、引用箇所の「岩」は「異和」であり「違和」なのです。とりわけ「正坐する老婆」に、岩=異和=違和を感じないではいられません。
信仰や崇拝の対象にもなりうる岩を描いたこの部分に、異和や違和だけでなく、なにか、こう、シャーマンとか呪術めいたものすら感じるのは、粗忽な私が「坐」という文字に、巫女(みこ)の「巫」である「巫(かんなぎ)」を連想してしまうからかもしれません。
『杳子』の冒頭の一行にも「坐」が出てきます。しかもルビがふってあるので、私はぞくっとします。古井先生、「坐って」くらい読めますよ、なんて思う人もいるでしょう。
(『妻隠』p.172『杳子・妻隠』新潮文庫所収)
『杳子』といっしょにおさめられた『妻隠』(つまごみ)の冒頭の一文ですが、「老婆くらい読めるよ」という読者の声が聞こえてきそうです。
ルビをふられているかいないかに関係なく、老婆や老女は古井の小説においてなにか巫女めいた存在としてあらわれることがよくあります。『妻隠』の老婆は、新興宗教がらみっぽい人物として、ややうさんくさく描かれています。
ちなみに、私にはむしろ「ヒロシ」という「少年」が巫女の素質をそなえた存在に感じられます。老婆はそのヒロシの巫女性に目をつけているのかもしれません。ヒロシはどこか女性的でもあります。
『杳子』の陰に隠れて影の薄い『妻隠』ですが、『杳子』よりずっと読みやすいと思います。私にとって『妻隠』の魅力は何よりも「ともぶれ」の多さです。いつか、このことにふれた記事を書いてみたいと思います。
人と人のともぶれ
話を『杳子』にもどして、つぎに人と人との「ともぶれ」を見てみましょう。
この小説の視点的人物である「彼」が、見られる対象である女(杳子)の視野とその思いに「移っていく」箇所です。「移」という文字を見てしまった以上、私は漢字分けをしないではいられません。
うつる、移る、映る、写る。
私の大好きなというか、私が敏感にふれてしまう言葉とその身振りが「うつる・うつす」なのです。意味ではなく身振り、ふりにふれてしまいます。
女の中を影のようにうつっていく自分をうつしみる――。
うつるがふれるであることがわかる部分です。
引用箇所では、この作品をとおして杳子にともぶれしていく「彼」の、おそらく最初の身振りが直裁に踏みこんだ形で描かれています。
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ともぶれは、『杳子』全体の言葉と登場人物の示す身振りだと思います。共にふれるという身振りに、共依存という言葉を連想する人も多いにちがいありません。
依存、たよる、もたれる、よりかかる。
共依存、たよりあう、もたれあう、よりかかりあう。
たしかに、この小説全体にはそうした身振りが満ちています。そして、その身振りの象徴として、作品の冒頭で杳子の目に映ったケルンがある。
ケルンは前触れ、前震れ、前振れ。そんな気がします。
(つづく)