諦めきれない想い
みなさん、こんばんは。東京オリンピックも半分が過ぎましたね。様々なドラマがあり、感動も生んでいます。
選手の方々の努力と頑張りには改めて敬意を表したいと思います。
日本のスポーツのあり方も、ここのところ様々な声があがると共に変わりつつあるのではないかと期待感がある反面、依然と過去からの温床が続いているのも事実です。
トップダウンのやり方はいまだにあります。ただ、「暴力はいけない」(手を出してはいけない)ということは表向きには理解されたように見えます。しかしながら、まだまだ暴力による指導はなされていて最近でも報道されていますから、もしかしたら水面下に潜っただけなのかもしれません。
また、暴力が減ったとしても暴言や態度などの改善はなされたとは言えない状況だと思うのです。
先日も、あるバレーボールのスポーツ少年団の練習で指導者が子どもたちに対して「ボケ」などと怒鳴っている姿をみて心臓が締めつけられました。
大人がよかれと思ってやっていることがどれだけ子どもたちを傷つけているのか、また、プレイヤーに指導者は「教えている」を正論として自己否定感を植え付けているか、それがプレイヤーのメンタルと思考にどのような影響を与えているのかということを改めて考える必要があるのではないかと、オリンピックを観ながら考えてしまいました。
プレイヤーにとって、指導者の影響は大きくて、またプレイヤーが若ければプレイヤーの親も指導者の考え方の影響は必ず受けます。プレイヤーにとって、指導者の思考が昔のままで親とタッグを組んでしまうとプレイヤーは逃げ場を失ってしまいます。
私はそれをとても危惧しているのです。
1人でも、プレイヤーの気持ちに寄り添える人がいたり、また本来のコーチングやプレイヤーズセンタードを学んでそれを実践しようとする人がいて、そこから輪が広がればいいのですが、実際はマイノリティのままです。
マジョリティの中にいる安心感の方が優ってしまうのでしょう、その気持ちは理解できます。
ここのところ、私のメンタルを心配してくれる人達から私がやっていることに対してやめることを勧められます。
それは私が、私のことを歓迎されていないところに足を運ぶという行動に対してなのです。
確かに歓迎されていない場所に行くのは楽しいものではありません。強制されているところでもないので行かない選択の方が正しいのかもしれません。
でも、私がそれでも行くことを選択する理由が存在するのです。
先に書いたように、1人でもプレイヤーの気持ちに寄り添える存在になること。今、私が学んでいることを実践することで少しでも理解してくださる人が増えることなのです。
そこにはプレイヤーがいて、そのプレイヤーの表情をみていて、生き生きとしていない。そしてその状況が普通だと認識されてしまうということ。そうすると、これからの未来それが常識として連鎖する。その連鎖を断ち切ることをしていく努力を誰かがしないと変化することはないと思うんです。
すごい草の根運動で、それは芽がでることがあるのか、とも思ってしまうこともあるのですが、必ず芽が出ると信じて続けることが大切なのかなと。
そのために、自分自身も学び、向き合い、自分の行動を信じながらも疑い修正していく。それがまだ1人であったとしても、、です。
久々に、自分の感情を吐露する内容になりました。(笑)
読んでいただいた方、私の感情にお付き合いいただいて、ありがとうございました。