坂道に向かって地下鉄の風が吹く

 鉄道は地下を走っている。階段をぐるぐると下って,ホームを目指す。地元では使う必要のないSuicaを改札に翳してみることで,今自分が東京にいると実感した。タイル状の固い地面にヒールがぶつかる音が大して目立たない。東京ではありふれた生活音らしい。

 目的地の駅に行くためにはいくつかのルートが存在している。まるで人生の選択肢が多岐にわたることを示すみたいに。この歳になって山手線しかろくに知らない私は,わざわざ新宿駅で電車を降りる。頭上のホーム案内を立ち止まって読み解く自分の姿はさぞ田舎者に見えたことだろう。先を急ぐ見知らぬ人にどんどんと追い越されていく。
 ―高田馬場で降りるより早稲田の方が近くない?
 ―え、早稲田って何線で行けるの。
 短いチャットのやり取りで早稲田駅の存在を知った私は,すでに高田馬場駅から外に出てしまっていた。スマホには通信制限の通知が届いていた。ラーメン屋の看板が立ち並ぶ。まだ準備中の店が多い。

 東京都内の大規模な大学は,ビルの集合体だった。数字の割り振られた無数のビル街だった(本当は,無数にあるように感じられるだけだ)。団地の案内図みたいな構内図をどうにか解読し,目的地を目指す。コートのポケットに入れた薄い文庫本を握りしめた。
 目的地は4号館と示されている建物だった。西門から入ったせいで,少しばかり遠い。風の強い午前中で,日差しはあるのに寒さが主張している。4号館の左手には文化財みたいな風格ある建物もあったが,あれは何号館なんだろうか。

 ジャス,レコード,ラジオ。文庫本,単行本,翻訳作品。コーヒーの匂いが微かに流れている。春休みかつ平日の午前中だったせいか,グランドピアノは蓋が閉じられていた。机や本棚に使われている木材は明るめのトーンで,春らしさを演出している。作品の並び方はどうやら発表順らしい。図書室の奥から,羊男がじっとこちらを見つめている。いまにも,おいらはね―と喋り掛けてきそうだった。
 猫の『いわし』はどこにいるのか,今日は分からない。そういえば,あのナンバリングされた双子もどこかに隠れていただろうか。さすがに図書室でビールを飲む鼠はいないか。

 小説をあまり読まない恋人は(とはいえ小説を軽視しているわけではない),なんだか不思議な空間だったねと言った。不思議でよくわからないことが多いでしょ,それがまた価値なんだよと返事をした。やれやれって呆れちゃうでしょ。
 私たちはやけに哲学的な表情で瓶ビールを注文した。

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