『飢餓海峡』と『シークレット・ディフェンス』 -「出会い直し」に覚える目眩
それなりの本数、少なくとも人並み以上の数は映画を見てきたつもりではあるが、そこに内田吐夢の監督作品がひとつも含まれていないのはさすがにマズいのではないか、という漠然とした不安に駆られ、ひとまず代表作である『飢餓海峡』を見た。
犬飼多吉(三國連太郎)は、大金を手にすることとなった強盗事件の共犯者2人を、津軽海峡で起きた連絡船の転覆事故のどさくさに紛れ、殺害する。その直後に出会った娼婦・八重(左幸子)と一夜をともにし、その金の一部を八重に渡し、犬飼は本州へと逃亡し姿をくらます。10年後、八重はある新聞記事に犬飼と酷似した男の顔写真を見つけ、居ても立っても居られず男の家へと赴く。樽見と名乗る男は、八重の追求にも顔色一つ変えることなく、函館での出来事など知らぬ存ぜぬの態度を貫き通そうとする。しかし、親指の傷痕という決定的な証拠を見逃さなかった八重は、相手の否定などお構いなしに10年越しの恋慕の情を昂らせ、樽見=犬飼であるとの確信を男にぶつける。
この二人の密室での対峙が183分ある映画の、おおよそ半分に差し掛かるあたりで行われるのだが、この左幸子の興奮を目にしたときに私が期待したのは、他でもない、アルフレッド・ヒッチコック『めまい』的なメロドラマへと雪崩れ込んでいくことだった。樽見という偽名を用いて普通の生活を送り、自分が犬飼であることを認めない男との再会を、八重が「ドッペルゲンガーとの出会い直し」と倒錯的に解釈して自分を納得させ、いつしかその妄想に犬飼も巻き込まれ、樽見=犬飼という揺るぎない事実の透明性が二人の間で薄れていき・・・という、勝手にもほどがある期待である。もちろん、これは『めまい』の変奏といっても良い、だいぶ無茶苦茶な筋書きであり、ジェームズ・スチュワートとキム・ノヴァクの間で起きた「出会い直し」は、その後明らかになるやや複雑な真相を考慮に入れても、もう少し直接的なものといえる。しかし、『飢餓海峡』の樽見邸の一室で起きたこの「再会」に、ジェームズ・スチュワートの妄執がもたらしたあの有名すぎる「再会」シーンを重ね合わせてしまうことは、そこまで無理な飛躍だろうか。いずれにせよ、八重の興奮を抑えようとした勢いそのままに、犬飼が八重を殺してしまうという衝撃の展開によって、私の期待は呆気なく潰えることになる。この「第二の殺人」(ちなみに、八重殺害の事実を目撃した使用人の男もセットで殺し、二人の心中に偽装している)について、刑事の味村(高倉健)が犬飼=樽見の捜査を始める、という後半の展開もそれなりに見応えがあったので、三国と左による『めまい』が見たかったなどという難癖をつけるつもりはない。
内田吐夢との出会いから2日後、似ても似つかない映画の中で、『飢餓海峡』の中盤で抱いたあらぬ期待が成就する。ジャック・リヴェット『シークレット・ディフェンス』は主人公シルヴィ(サンドネール・ボネール)のもとに、弟ポール(グレゴワール・コラン)が訪ねてきて、数年前に事故で死んだと思われていた二人の父親が、実は右腕だった男・ヴァルサー(イエジー・ラジヴィオヴィッチ)によって殺されたのだと告げる。父の復讐を果たそうとするポールの代わりにシルヴィはヴァルサーを訪ね、拳銃を突きつける。しかし、そこに現れた彼の秘書・ヴェロニク(ロール・マルサック)を誤って殺してしまう。ショックで気絶したシルヴィだったが、翌朝目覚めるとヴァルサーは素知らぬ顔で彼女に朝食を与え、ヴェロニクの死を既に「処理」したことを示唆する。「第二の殺人」は呆気なく放って置かれることになるかと思いきや、ある日ヴァルサーのもとに、死んだヴェロニクに瓜二つの妹が訪ねてくる。連絡の途絶えた姉の動向を探るためにやってきた妹を演じるのは、ヴェロニクを演じたロール・マルサック(『ラ・ピラート』のあの子供探偵!)まさにその人である。つまり、(物語上は)死んだはずの人が、(演者として)生きている、という『めまい』と同様の映画的トリックが確信犯的に持ち込まれている。この妹と、その姉を誤って殺してしまった張本人であるシルヴィが対面するシーンでは、『飢餓海峡』で私が半ば無理矢理稼働させた想像力の半分も用いずとも、『めまい』における「出会い直し」を容易に想起することができる。『シークレット・ディフェンス』においてこの二人の対面は、脚本上だけでなく画面上の演出においても映画のラストと明確に連関しており(詳しくは映画を見て頂きたい)、重要なシーンであることは間違いない。
ここまで、おそらく今まで誰も並立させることのなかったであろう二本の映画をヒッチコックの助けを借りて遭遇させてみたが、考えたいのは、『飢餓海峡』では見ることが出来ずに終わった(かと言ってそれが映画の落ち度だと主張したい訳ではもちろんない)ものの、2日後に見た『シークレット・ディフェンス』で偶然にも目撃することができた、一人二役という仕掛けの「身も蓋もなさ」である。
映画における一人二役を目撃した瞬間の、あの興奮とは一体何だろうか。三國連太郎の10年後の姿が、左幸子と初めて会った時とは様変わりした風貌になり、一見すると別人にも見えてしまうことは『飢餓海峡』の物語の要請上、致し方ないことではあるし、厳密には一人二役には当てはまらない例かもしれない。だが、一人二役の目撃において重要なのはやはり、「どう見ても同じ人が演じている」ということではないだろうか。あるフィクションを役者が演じるという明確な「嘘」がベースにある映画という装置において、「この人はさっきの人と同じですが、違う人だと思ってください」という更なる「嘘」を呑み込むことが要求される。しかも、第一の「嘘」は物語という助力によってある程度は隠蔽されるが、一人二役という「嘘」はその物語の助けを借りるどころか、「違う人だと思わなければいけない」という物語による要請が今度は却って仇となり、「それは無理があるだろう」という抵抗が否応なく起こってしまう。にも関わらず、『めまい』を筆頭に、優れた映画が見せてきた「どう見ても同じ人が演じている」一人二役には、映画の魔力ともいえる何かが宿っている。バレバレの嘘をついているのに堂々と開き直るしかない、その有様に気圧されるのだろうか。それを受けた側の人物の反応が、一人二役という欠陥だらけの詐欺にまんまと騙されているという事態に、フィクションとしての強度を認めるのだろうか。そんな「嘘」たちがいつの間にか「嘘」としての効力を失い、「真実」として立ち現れてしまうような事態を、『飢餓海峡』の中盤以降に期待したのかもしれない。いずれにせよ、その秘密を言語化するのは容易ではない。すでに優れた批評家がどこかで論じているだろうし、その実験・実践として優れた映画が多く作られてきているので、ここでは改めて個人的な問いを立てるに留めたい。
演じるということの可能性/不可能性を様々な方法で探ってきたジャック・リヴェットが『シークレット・ディフェンス』で『めまい』への目配せを行なったことは当然の帰結のようにも思える。かといって、謎めいたジャック・リヴェットという作家の真髄は、まだまだ見えてくる気配がない。それでも、『飢餓海峡』が発端となった「出会い直し」について考えることは、その糸口の一つとなり得るかもしれない。