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銀河鉄道999の原風景① 松本零士の訃報とJR予讃線


先日、漫画家の松本零士氏が亡くなった。私たち世代にとって、彼の漫画は子どもの頃にリアルタイムで夢中になり、その後の人格形成にも大きく影響を与えたコンテンツである。

彼の作品の中で最も好きだったのは「銀河鉄道999」。
子どもの頃から夜空を見上げるのが好きで、「星座を見つけよう」という絵本が小さい頃のバイブル。何万光年という気の遠くなるような彼方で輝く星や、星座の物語に夢中になっていた。銀河を巡る999号の物語は、永遠の命をもらえるという哲学的テーマとも相まって、私の心をとらえた。とはいえ、まだ小学生だった私は哲学的命題について深く考えることもできず、メーテルをどれだけ上手に描くかに夢中になっていた。

しかし、子どもの頃に夢中になったものというのは、その後の生き方や人生観に大きく影響を及ぼす。今でも私は事あるごとに夜空を見上げている。東京の空であっても、星の最も煌めく冬には、オリオン座をはじめとしたかなりな数の星座が見られることも知っているし、その星座の中に時々、人工衛星が混じって直線的に移動していることも、夕暮れ直後の細い三日月に宵の明星がぶら下がる様は空に輝くイヤリングみたいだということも知っている。そして、それらはいつも私の心を癒してくれる。

地球を取り巻く銀河の星々の輝きを眺めることがなぜこんなにも好きなのか、わからないけれど好きとしか言えない。無数の銀河が集まった宇宙は更なる謎の宝庫で、私の好奇心を永久にくすぐってくれている。理由もなく好きというのは本当に好きということなのだろう。

松本零士氏の描いた宇宙を舞台にした漫画は子ども時代の私に深く刺さる思い出の作品の一つとなった。そして、彼の訃報を伝えるニュースの中に、これまで知らなかったある事実を見つけたことで、「銀河鉄道999」は私にとって、より思い入れの深い作品となった。

これまで知らなかった・・・とは、松本零士氏が戦争中、私の実家がある八幡浜市と同じ愛媛県南予地区の大洲市に疎開していたという事実である。銀河鉄道999は、その頃、疎開先で見た満点の星空の下で山裾を走る蒸気機関車の姿からイメージしたものだというのだ。松本氏の創作の根底には疎開先の風景があり、コロナが流行する以前は、大洲市の町おこしイベントなどにも参加していたという。ファンの間や、大洲市では知られた話だったようだが、リアルタイムで「銀河鉄道999」に触れて以来は松本作品から遠ざかり、高校卒業後、東京に出た私は松本氏のこの疎開先の話を知る機会に恵まれず、今に至っていたのだった。

彼が子どもの頃に眺め、長じて、999号に昇華させた蒸気機関車の走る風景は、現在、讃岐=香川県と伊予=愛媛県を結ぶJR予讃線の一区間でかつて見られたものだ。松本氏が疎開していた頃、その区間は予讃本線(後に予讃線に改称)の駅、大洲市にある五郎駅を起点として山の方に向かって延びる愛媛鉄道内子線の一区間だった。

ここで、少し脱線して、愛媛県の宣伝も兼ね、予讃線について少し説明しておこうと思う。予讃線は元々、多くの部分が海沿いを走る路線だが、国鉄分割民営化直前の1986年、山沿いをゆく内子線の終点・内子駅から先を松山方面に延伸し、予讃線に繋いで新線となった。以来、予讃線は松山を出て、伊予灘を眺めながら走る海回り路線と山深い内子方面を通って五郎駅で合流する内陸路線に分かれる2股路線になった。特急・急行列車は台風の影響受けにくい内子経由の内陸路線の方を走るようになり、海沿いの従来路線はいわゆる鈍行列車のみ。私の地元、八幡浜駅から松山駅までは内子経由なら特急で50分弱。一方、海回りだと、2時間以上かかるため、今では内子経由の路線が主要路線となっている。

しかし、私は帰省する時、いつもあえて海回りで帰った。時間がかかっても、海を眺めながらのんびり鉄旅を楽しみたいからだ。そしてもうひとつ、私にはかつてその路線に乗った時に出会った忘れられない風景があるのだ。もう一度その風景に出会いたい。半分、もうその風景に出会えないと思っていても、もしかしたらと、あれから30年以上が経った今でも、海沿いを選んでしまう。

松本零士氏にとって、満点の星空の下で内子線を走る蒸気機関車に感動し、999の原風景となったように、私にとって、同じ予讃線の海沿いを走る列車でその風景を見たことは人生の中で最も心が震えた体験であり、奇跡のようなものがこの世に存在すること、この世には無限の可能性があることを信じさせてくれた希望のようなもの。それは、そんな風景だったのだ。

あの日、海回りの列車の中でその風景を目の当たりにした時、頭に浮かんだのは
「銀河鉄道999みたいだ」という言葉だった。

愛媛県を走る予讃線の、松本零士は山沿いで、私は海回りで999を体験していた・・・。
勝手なこじつけだが、そう思うと、その奇跡的な風景を見た時のことが目の前にありありと思い出されてきて、全く面識もなかった松本氏との間に目に見えない縁が繋がっているような気がして、いてもたってもいられなくなった。そして、松本氏が漫画という形で子どもの頃に見た999を再現したように、今私はここに「文章」という形で、自分の999体験を再現しようと思った。私が見た奇跡のような風景を多くの人に知ってもらいたい。愛媛県を走る予讃線という鉄道はそんなすごい風景が見られる路線であり、この地域はそんな素晴らしい場所なのだということを伝えたい。そして、そのことが地元の活性化に少しでもつながればとても嬉しい。身体が動きづらくなってきてから、地元の町おこしについては考えないでいたが、このことがきっかけで、再び町おこしへの思いが湧き上がってきた。

この文章を書くために、予讃線の歴史について確認していたら、内子線はかつて国鉄ではなく、愛媛鉄道という民間鉄道だったこと、国鉄より民間の伊予鉄道の方が開業が早かったこと、愛媛県にもかつては6社もの民間鉄道があったことなども分かった。これまで鉄道といえば国有が先で、そこに徐々に民間が参入し始めたのだろうくらいに漠然と思っていたが、その自分の認識は間違っていたのだ。歴史を辿らずして現在のイメージだけでその土地の特性を決めつけてはいけない。この文章を書きながらそんなことにも気付かされた。そうした歴史を掘り返していけば、かえって、今のイメージに縛られない町おこしのアイディアも浮かぶかもしれない。

松本零士氏の訃報をきっかけにこれだけのことを思い出し、町おこしに対するモチベーションが再び高まり始めた。病のせいで、二の次になっていた町おこし企画だが、亡くなった人がくれたきっかけが再び私に力をくれようとしている。これも一つの縁と言えるのではないだろうか。

きっかけといえば、私が子どもの頃宇宙に夢中になったのは、その頃、UFOにハマっていた父の影響も大きい。お金はなかったくせに、安物ながら天体望遠鏡がうちにはあって、月のクレーターくらいは物干しから眺めることができた。父も昨年末に亡くなったが、この亡くなった2人のお陰で、私は再び自分の地元について考え始めている。私が勝手に、死者からプレゼントをもらった気になってるだけではあるが、もらったのだから、このプレゼント活かさねばならない。

というわけで、次回は35年前に体験した私だけの999を再現することから始めたい。
本当に奇跡的な風景だったのだ。

※私のがん治療、町おこし企画、火鉢カフェ普及活動、執筆活動など、さまざまな発信
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