「翔べ! 鉄平」 エピローグ 30 FIN

 狭い車の中で揺られた後の、滑走路を渡る風は涼しく気持ちが好い。

 啓二は風子を飛行場端のクラブ・ハウスに連れて入った。

「なんだ、啓ちゃん、また飛行機に乗ってたンだ」

「いや、操縦をするンじゃないよ」

「え?」

「鉄平に会わせてあげるよ」

「え!?」

 鉄平に会わせてあげる、突然出てきたその言葉で風子は何も考えられなくなった。ただ箪笥の中にしまった鉄平が飛び出してきそうな気がする。

 啓二は風子をクラブ・ハウスの準備室に招きいれ、平紐の束を渡しながら言った。

「これを着て」

 啓二はわざと澄ました表情で言う。風子は鉄平の名を聞いてからはそれまで以上に鉄平のことを語ることに慎重になって何も考えないように口数を減らしてしまっていた。
 ただクラブハウスに貼られたパラシュート降下の写真を見ると、どこかに期待感も感じていた。

 風子は何も考えないようにして啓二の言うとおりにする。
 啓二が笑顔を隠すのは、風子が何も言わずに従ってくれるのが嬉しくてたまらないからであった。啓二は風子の身に着けるパラシュートの着いていないハーネスを確認した。

 アメリカン・キャップを被った若い男が入ってきた。風子は何処かで会ったことのあるような印象を受けた。

「亀田さん、用意いいですよ。あ、こんにちは。奥さんですね。私、猪俣と申します」

 風子は黙ってお辞儀をした。

「ああ、今行きます」

 啓二は風子を連れてハウスを出ると一機のセスナに向かって歩きだした。

「ねぇ、大丈夫?」

「ああ、僕と一緒に飛ぶンだ。タンデムだ。大丈夫だよ。男なら金玉が踊るけど、女は大丈夫」

 啓二は鉄平の言葉を思い出して風子の顔を見て笑った。風子は緊張でこわばった顔をしていた。落下傘で落ちる事への不安もあったが、その気持ちの中では、鉄平に会えるといった啓二の言葉が何かを期待させていた。

 後部座席が取り払われたセスナの操縦席の後ろに、仰向けになるように転がって乗り込んだ。
 猪俣ともう一人の男が操縦席に乗り込む。

「いいですね。閉めます」

 スライド式の扉が閉められた。係りの人が外から扉を確認してセスナから走り去る。

 プロペラが回り始めた。飛行機が軽い機体を回転させる。動き出した。暫くするとセスナが止まり、そしてエンジンが大きく唸り始めた。滑走を始めると仰向けになって啓二に寄りかかっている風子の体は後方に引きずられる。
 風子は啓二のズボンのポケットの裾を掴んだ。

 機体が浮き上がる。プロペラの響きが重くなり静かになる。セスナは機体を斜めにして旋回しながら高度を上げる。耳が重くなり唾を呑む。体が上下に揺れるのを感じる。

「私の親父は、戦争中、飛行気乗りをやっていたンですよ。メナドの空挺作戦にも参加したそうです。私は親父のことはほとんど覚えていないンですけどね」

 猪俣が操縦席から後ろを振り返って大きな声で言った。啓二はクラブに入会して暫くしてそのことを知ったが、彼から鉄平の名前は出てこなかった。
 啓二も敢えて鉄平のことは聞かなかった。ただ何かの繋がりを感じざるをえなかった。

「一〇〇一(イチマルマルイチ)部隊ですよ」

 猪俣は以前啓二から聞いた一〇〇一の話から、何かの繋がりを予感して風子に話しかけた。風子も一〇〇一のことは聞いていた。

 猪俣はセスナを上昇させながら淡々と父親のことを語った。

「あ、これ見てください。親父の写真です」

猪俣はダッシュボードから写真立てを取り出した。助手がそれを取って後ろに回すと、啓二が受け取りそれを見た。

 それはセピア色になった軍隊の集合写真であった。

 その写真を見た瞬間、啓二は探していたものを見つけたと確信して顔をほころばせた。

 ふとしたことから知り合った龍宮に連れられて、彼の小隊を紹介されたとき、食堂で見たあの目が、そこに光っていた。

 そのまま自分のお腹の上に仰向けになって寄りかかっている風子に渡した。

 鉄平が飛行機のダッシュボードから飛び出してきた!

 風子はその写真を見ると、それはいつか鉄平が送ってきた、あの集合写真と同じ写真だったのである。

 するとセスナを操縦する猪俣と繋がった。やっとそこに鉄平の夢を見つけた喜びがわいてきた。
 鉄平が『仲間がまっているから』と言ったその仲間たちがいる。一〇〇一の全員が並んで映っている。鉄平は一番前の列で座って笑って、両隣の男と肩を組んでいる。写真のみんなは笑っている。

 何度も何度も見て一人ひとりの名前を覚えた写真の中の人たちだった。

「もうそろそろです」

 助手が振り向いて言った。写真は風子から啓二、助手の手を渡って猪俣に返された。助手が操縦席から這うように後ろにやってくる。

 操縦席から合図があると、扉が開けられた。機体に風が入り込む。機体が揺れる。外には関東平野の田畑がモザイク模様のように広がっている。
 鉄平たちが目指した数千メートルからの自由降下は、開傘索は必要がない。自分で開くのだ。

「亀田さん、三〇〇〇メートルです」

 啓二は手で合図をし、風子のハーネスの肩の金具を自分のハーネスの胸の金具に装填した。

 助手がハーネスを確認する。

「ィヤ! 啓ちゃん」

「大丈夫」

 啓二はお腹と膝で風子の体を支えて戸口まで這い寄り、床に座ると足を空中に投げだして後ろを振り返った。

「亀田さん、いつでもどうぞ。ゴ!」

「風ちゃん、行くよ」

――戦争の呪縛から、善悪の幻想から、理想という虚像から、自分を解き放て!

 啓二は両腕で扉の縁を押し、風子を抱えた体を機外に落とした。

キャァ―――――

 風子が叫んだ。子宮が回り乳房が震える。しかしすぐに気持ちは落ち着いてしまった。啓二は風子の手首を掴み、自分の腕と共に大きく左右に突き出す。体は大空を背負い、その正面に地球が広がっている。

 自信に満ちた二人は風に包まれ冷たい風に乗る。風が二人を押し流しても、それでも向きを変える。

 誰かがゆっくりと、もっと遠い空から降りてきた。
 啓二と風子の正面で大の字になって飛んでいる。

 その影を追って沢山の人が集まり始めた。
 二人を取り囲む。彼の仲間たちは大きく広げた手を繋ぎ、輪を描いて繋がる。あの写真の中の、彼の仲間たちが集まってくる。
 龍宮、熊沢、犬飼、鶴田、猪俣、猿田……鴨志田もいる。自信に満ちた目を輝かせている。鉄平の夢が空を翔けている。繋がった輪が右に左にくるくる回る。

 二人の正面で顔を持ち上げて白い歯を見せてニヤニヤと二人を見ているひとがいる。

「鉄ちゃん!」

「やぁ!」

 風子と啓二は空を渡る風に包まれて、大空に鉄平を見つけた。

                          〈了〉

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