『照星(しょうせい)』 6
「撃ち方、始め!」
剛がスコープを覗くと、熱帯の朝の太陽が大地の湿気を暖め陽炎を作り出していた。
円の世界が揺れた。
揺れる陽炎の向こうに標的が揺れた。
黒い点を追う。
額の近くをハエが音を立てて飛びすぎた。
息を吸って、吐いて、吸って、吐く。
耳鳴りがするほどの静けさの中で、草の揺れが止まった。
息を吸って、止める。
ドン!
十発を撃ち終えると、弾倉を交換し、スコープの距離調整をすると、今度は三百メートル先の標的を探した。
標的を追い捉まえて、五発を撃ち込む。
再び五百メートルに距離を調整し直す。
五人全員が二十発を撃ち終えると、標的まで走り点数を数えた。
剛の得点は、二百メートルで、中心の黒い点の十点が九個、その横の九点に一発が当たっていたので、九十九点。
三百メートルは影に当たれば一発三点で、一発を外していたので十二点、そして五百メートルでは五発中二発が当たっており六点だった。
「ツヨシ、幾つだった」
「ああ、百十七…お前は?」
射撃台に戻る途中の、走りながらの会話は体力を消耗するが、それでも気になるのが相手の成績だった。
「ヘヘ…百十五…ク!」
射撃台に戻ると残り三発の射撃が始まった。
今度は二百メートルから二百五十メートルの間に、距離と幅を変えて置かれた人の頭ほどの大きさの風船を撃ち抜くのだ。これは得点が高く、一つ十点で各自三つの風船が標的として与えられる。
再び号令に従って五人がうつ伏せで構えた。
風に揺れる沢山の標的の中から、剛は自分に指定された三つのうち一番遠い左の風船を見極めると、始めにそれに撃ち抜こうと考えた。
集中力が落ちる前に難しい標的から始めて、残る二つを少しでも余裕を持って消そうと思ったからだった。
一番左の風船を肉眼で確認しスコープを覗こうとしたとき、一輪の小さな白い花が焼けて熱くなった銃身にその長い茎を寄せて俯いているのに気が付いた。
それが気になって、剛は銃と体を同じ姿勢で十センチほど右へ移動させた。そしてスコープを覗いて風船の標的を追い始めた。
風で風船が揺れている。
呼吸を繰り返す。
風が止み風船が止まる。
ドン!
しかしその風船は消えなかった。剛の脳は一瞬真っ白になり、額をスコープから外すと腕の中に顔を埋めた。
次は外せない。左手で右肩の銃床を握りなおすと、再び構え直した。
ベルーに勝ちたいと思うよりも、いい成績を上げたいと思うよりも、今の自分に負けそうな気がした。
諦めてしまいそうな気がした。
ベルーが笑っている。
ルインが見ている。
ブルゴーニュが睨んでいる。
マジュビが見つめている。
剛は安心できた。
そして、もう一度同じ標的を狙うか、確実に取れる近い標的を狙うかと迷いながら、ゆっくりと三つの風船を追って見ていると、初めに狙った左側の風船だけが他の二つの風船よりやけに左に離れている。
右側の二つの風船の位置は手前と奥に十メートルほどの距離があるのだが、スコープの円を平面で考えると、二つの左右の幅はほんの少しの間隔で離れているだけなのである。
その二つのうちの左側、すなわち三つのうちの真ん中の風船までの距離は約二百メートルだ。
一番自信のある狙いやすい位置だった。スコープの中に可能性が見えてきた。
剛は思い切って左側の一番遠い所にある、最初の風船を狙った。
息を吸って、吐いて、吸って吐いて、引金を引いていく。
風が止む。
吸って、止めて、
ドン!
二度目は外さなかった。スコープから目を上げると、他の四人はすでに撃ち終えて、目の前に置かれた銃の後ろで立っており、剛の撃ち方を見ていた。剛は伏せたまま右手を上げて叫んだ。
「大尉殿!」
射撃台の隅で腕を組んで椅子に座り射撃を眺めていたブルゴーニュ大尉が立ち上がった。他の者たちの視線が射撃台で交錯した。銃に支障が起きたのかと思ったルイン伍長が近寄った。
「どうした、ヤジマ」
「位置をもう少し左に移動していいですか?」
「どうしてだ。目標が見えないのか」
大尉は標的の並ぶ方向に目をやりながら剛の位置に近寄った。
「いいえ、残りの一発で二つの風船を消したいンです」
それを聞いた大尉は剛を睨んだが口元は笑っていた。
「出来るか」
「やってみます」
「よし、移動していい。ただし必ず二つを消せ。一つでも外したら、この射撃の点数はゼロだ。もし成功したら、三十点、プラス、十点だ」
周りの兵隊たちの視線は剛に集まり、口笛やため息や歓声が上がるともう剛も逃げられない。
「了解しました」
ベルーは剛がこのハット・トリックをやってのけそうな嬉しい期待と、射撃で負けてしまうかもしれない不安で剛の行動を見守るのだった。
訓練隊の全員が見守る中、剛は十メートルほど左、射撃台の一番端まで移動して銃と共に地面に伏せた。普段は人の使わない位置なので草が生えており、その草の先に揺れる白い小さな花々をむしり取って銃の位置を調整した。
スコープで覗いて、残った二つの風船を捉まえると、その二つが重なったのである。
ただ重なり方が少し足りなくて、三分の一が風に揺れて重なったり離れたりしていた。
「残り一分!」
記録係のダジルバ兵長が声を上げた。
スコープを覗く右目から照星を通して標的までの視線は一直線なのだが銃口は少し上を向いていており、発射された弾丸は緩い山なりに放物線を描いて飛んでいく。
そして標的に当たる時には、弾丸は落下しているのである。だから奥の風船の下辺を狙えば、手前の風船の上辺を通り抜け、二つ目の風船の下辺に届くはずである。また弾丸は勢い良く渦を巻いて飛んでいるので、そのすぐ近くを掠めるだけでも、カマイタチのように引き裂かれた空気の真空が風船を引っ張って割るはずだ。
剛は狙いを定めた。
風で二つの標的が小刻みに揺れた。
息を吸って吐く。
風で風船が揺れているときでも、離れる時もあれば、ほぼ完全に重なる時もある。
もう一度呼吸を戻す。
風が止む。
息を吸う。
吐いて、吸って、吐いて、風が止む。
照星の切っ先が奥の風船の下部で止まった。
息を吸って止める。何時間過ぎたのであろうか、風が吹き始め風船が揺れ始めた。引金をゆっくりと引いていく。
ドン!
剛はスコープの円の中に風船を探したが見つからなかった。
頭を上げて肉眼で確認した。
その頃には背後で拍手と歓声が沸き起こっていたのだった。
剛は満面の笑顔を大尉のほうへ向けて、引金から離した手を挙げて、親指を立てた。ブルゴーニュ大尉は笑みを湛えながら記録係に何か指示を出し、ベルーはガッツポーズを取っていた。
「ツヨシ…やったな。お前に負けるなら、納得がいくヨ」
ベルーは剛の腕を取って立ち上がらせた。
五人並んで立ち、銃の遊底を引き出し、銃口を目標に向けながら突き出した。
射撃後の安全確認にルイン伍長が近寄ってきて、それぞれの銃の銃口と薬室を確認して行く。
ルイン伍長が剛の前にやって来た。
「ヤジマ、運を導き出すのも技量。それを掴むのも技量。すばらしい技量にこそ、運のほうから寄ってくるンだ」
その後剛は、ベルーの不安通りかはたまた期待通りか、筆記試験で点を失い、結局総合で五位に終ったのだった。
ベルーは計算を伴う試験で点を失い三位であった。しかし射撃だけを見れば剛は満点以上を記録したのであった。
ライバルと言うのは互いの能力を存分に探る。
相手の長所短所、出来るところ出来ないところを探り、自分の長所短所、出来るところ出来ないところを見極める。
その自らの長所や優れた力で、相手の欠点や劣るところを攻めあうものなのだ。そして常にあらゆるリングに上がって、いかなる条件でも、全身全霊を込めて相手にぶつかり競いあう。
そうしたお互いを知り合うことが理解になり、そして更なる力を生み出すのだ。人が自分個人を認識するには、他の個人が必要なのだ。自分のために他人が必要なのだ。
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第三小隊に戻ると、准尉に結果を報告しなければならない。中隊長からは記録がすでに渡っているのだが、記録だけでは解らないことなども話をしなければならない。
「おお、ベルー、ヤジマ、良くやった。すばらしい成績だ」
「はい」
二人は同時に自信をもって答えた。
「とりあえず、来週、第一分隊のコルヴィックが帰任になるから、ヤジマ、お前がその後を引き継いでくれ。ベルー、やはり、射撃手は射撃が一番大切だからな」
「准尉殿、お聞きですね」
ベルーは自慢したかった。
「ああ、あのトリックだろ」
「お手上げですよ」
剛は横で黙って照れていた。ベルーは体を崩して笑いを誘いながら言うと、その場のルイン伍長も一緒に笑い始めた。その笑いが一瞬と止まると、マジュビ准尉は付け加えた。
「あ、ヤジマ…フランス語、早く覚えろ」
剛は今までよりもずっとフランス語は上達していたが、この言葉は剛への常套句になっていた。そうして二人はケピを被り敬礼をすると、回れ右から退出したのだった。
つづく
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