『山犬』
私は、昔、地中海に浮かぶコルシカ島(Cors)北部にあるカルヴィ(Calvi)という町に住んでいた。アルプス山脈の南、ニースという町と海を挟んで南側にある島だ。夏ならフランス本土から来るヴァカンス客で賑わう港町だ。
ある年の冬、休暇をもらい山に出かけた。
その年は雪の降るのが早く、住んでいる建物の窓から見える標高2144メートルのモンテ・コロナ(Monte Colona)は12月半ばには標高1000メートル以上は真っ白になっていた。
休暇初日の昼頃から歩き始めて、途中キュロンブ(Culombu)というコルシカ・ワインのカーヴで、空にしたヴォルビックのボトルにワインを分けてもらった。
そこから葡萄畑とマキ(Maquis)という潅木の間を半日掛けて歩き、山の中腹にあるカレンザナ(Calenzana)という村で一泊した。次の日、その村の登山口から、山登りが始まる。
村にはまだ雪は積もっていなかった。
次の日から、山道を歩き始めた。葡萄畑は無くなり、オリーブの林が続き、所々にマキがはびこる。
マキは高さ2メートル程度の、ヤニを多く含んだ潅木で、夏にはうす紫の花を咲かせ、秋には赤や橙色のフランボワーズのような実を付ける。ただ暑い地中海式気候の夏は、すべての草花が枯れ、擦れて山火事を引き起こす。
荒地には大抵このマキが広がり、根本は葉を落とし太い茎が伸び、その茎と茎の間がトンネルのようになっている。昔は、犯罪者がこのマキの潅木の中に逃げ込んだという。
晴れていたが午後になって峠に近づくと、雪が積もっており、次第に足首までを包むほどになり、峠を越えると北斜面の雪は次第に深くなっていった。
雪はサラサラで軽い。その雪が斜面を覆うマキの上にも積もっている。
登山道の雪についた足跡は、狐とウサギぐらいで、ここ数日は人間が歩いた形跡はなかった。
この島には、熊などの猛獣はいない。天然記念物のムフロン(Mouflon)という大きな渦を巻くヒツジのような角を生やし、太ったカモシカのような奴がいるが、他には野生化したヤギとブタである。
午後2時を過ぎ、あと1時間ほどで避難小屋に着くという頃、目の前に大きな岩山がせり出してきた。
夏に何度か歩いたことがあった。岩の下をくり抜いて横にトラバースしているのだが、いつも清水で濡れていた。ワイヤーも張っていない。今の時期なら完全に凍っている。トンネルのような細い道の右側は深い谷になっており、五〇メートルは落ち込んでいる。
双眼鏡で覗いてみても、岩の上から垂れる氷柱を見ると通りたくない。
忘れていた。この場所があるということと、クランポン(アイゼン)を買っておくという事だ。
ヨーロッパの冬の夕暮れは早く、午後4時には暗くなり始める。カレンザナの村に戻るには、4時間ほどかかり、夜の登山道を歩くことになる。
結局、峠まで戻り、使い古した炭焼き釜の中でヴィバークをしようと決め、来た道を引き返したときだった。
登山道に一頭の大きな白い犬がいるのである。どう見ても雑種だが、親しげに私を眺めている。
――なんだ、犬か
と思い、そのまま自分の足跡をたどることにし、犬に近づいていった。すると犬はマキの潅木の下に入り込んでいったのだ。
近づいて、犬が入っていったトンネルの奥を覗くと、犬も振り返ってこちらを見ている。
目を合わせただけで、そのまま通り過ぎようとした時、背後に視線を感じて振り返ると、その犬がトンネルから頭を出してこちらを見ている。犬の目は揺れ動かず、しっかりとこちらを見つめている。それが自信に満ちた表情にしているのだ。
――着いて来いって言っているのかな? じゃ、行ってみよう。
私はサックを降ろし、トンネルの前でかがむと、サックを足に引っ掛け、訓練で学んだように匍匐前進で犬の後を追って、トンネルに入って行った。
モーパッサンの小説に出てくる、罪を冒して逃げる逃亡者のようである。
トンネルの中はマキの上に積もった薄く軽い雪を通して午後の太陽が透き通り意外に明るい。
10分ほど軽い上りの斜面を匍匐前進すると、トンネルの先の、開けた穴から犬が除いており、その背後に暮れかかりはじめた空が見て来た。
雪を被りながらやっと穴を出ると、目の前に雪原が広がったのである。犬は先を急ぐように雪の中を進んでゆく。時々心配そうな表情で私を振り返り。私は多少深くなっている雪の中を、犬の足跡を辿りながら緩い谷を降りた。
そして数分もすると、雪原の右手前方に、目指していた山小屋の姿が見えたのである。
山小屋の戸を開け、犬を招きいれ、すぐに湯を沸かし、ラードを溶かした緩い湯を犬に差し出すと、犬はアルミの皿を舐めるまで飲み、それで満足したようで、ドアの前に向かった。
――もう出発か!
そう思ってドアを開けると、犬は山小屋を出て行ってしまった。
モンテ・コロナ(Mt.Colona)やアスコ(Asco)の方角ではなく、西側の谷にある登山口のボニファト(Bonifatu)の村を目指すのであろう。森林管理官(Forestière)の家があるのだ。
次の日は、とりあえずモンテ・コロナに登り、午後はそのまま犬の足跡を辿って、そのボニファトの村に降りた。
それ以後、山でトレースの判断に迷ったときは、犬の足跡を探す。それを踏んでゆくと、犬たちはいつも安全な道を選んでいるのである。
〈了〉