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インペリアル・ディテクティブ 最終話

三島は森山家一家殺害事件の発生の時から語り始めた。

     *

森山家殺害の第一発見者は竹中巡査であった。

その日、竹中巡査は交番に通報のあった無銭飲食の犯人を追いかけていた。
被害者のうどん屋の証言から、今までに何度も補導、逮捕されていた津久井淳であると考え、地域の見回りをしていた。

そんなある日の夜、淳がある家から飛び出してくるのを見つけた。
その時は淳を追いかけることよりも、その家で何かが起こったのかも知れないといと思いその家に入ると、すでに五人が殺されていた。

そしてすぐに津久井淳が指名手配されたのである。

家族が全て殺されており正確な被害状況は掴めなかった。
殺されたこと、他に主人が借りてきたという現金は貸主から証言があり判明した。

その後すぐに、淳がねぐらにしていた国鉄田端駅近くのガード下に隠れているところを逮捕された。
着ていた着物には血痕が着いており、被害者の血液型と一致した。

逮捕時の淳は痩せた体に着物というより破れたボロ切れをまとっていたという状況であった。そして体臭は汗と小便の匂いが混ざって饐えたにおいを放ち、頭の髪や髭は伸び放題でほとんど白髪になり虱がわいていた。

当時刑事になって間もなかった三島刑事は聴取前に淳を留置場の風呂に入れさせ、自宅から持ってきた下着とシャツ、ズボンを与えた。
すると二十歳は若返ったと思えるほど変貌した。

その後、まだ十分に手に入る訳ではなかった白米の握り飯を留置場の彼に持っていったのである。

「津久井、飯だ」

すると淳は握り飯を無言で見つめるだけで、すぐには受け取ろうとしなかった。

淳は何かに怯えるように三島の顔を見、握り飯をも怖そうに見る。
そして再び三島の顔を見た淳は震えるようにそっと首を振った。

「食べていいんだぞ」

三島は握り飯の皿を留置場の畳の上に置き、淳に背を向けて部屋を出ようとすると、背後で喉を震わせながら握り飯を貪る気配がした。

三島はそんな惨めな淳を振り返ることが申し訳なく、その場を去ったのであった。

取調べが始まると、淳は始終言葉を忘れてしまったかのように黙っていた。
そして飯の時間に握り飯が出されると、それを前に暫く警戒してから、人目を避けるようにして、突然獣のように慌てて食べ始めた。

そうして毎時間定時に握り飯が出されるようになり、安心して気持ちも落ち着いてきたのか、問いかけに頷いたり短く返事をするようになった。

平成の今日であれば利益誘導として糾弾されるであろうが、食糧事情がまだ完全に回復していない時期であっても規則として食べさせないわけにはゆかない。

それも警察署としては最大限の握り飯の食事でしかなかった。

その後は取り調べの間、食事の時間が来ると笑顔を見せるようになった。
そして犬のように従順になり、自白した。

淳は毎日毎日握り飯を楽しみに待つようになった。

そして裁判が始まり、一切を否認することなく刑が確定した。

     *

「私は、その後一度彼に面会しているんです。私は、もしかしたら彼は無罪じゃないかと思って、控訴を勧めたんです。しかし頑なに、しかし優しい顔つきをして首を振るだけで……」

三島は無表情の顔を伏せた。

また三島は拘置所の教戒師に会うことが出来た。

教戒師の話によれば拘置所では妹から差し入れられた菩薩像を毎日拝んでいると言うことであった。

周囲の看守らに言わせれば、改心し悔い改め仏像を拝むようになったと言うのだが、その教戒師も疑問を持っていたらしい。

淳の表情は悔いているというより、安堵し喜んでいるように見えたという。

     *

「拝むのは片腕をもぎ取られた仏像だったのですが、それでも苦痛苦悩の表情は無く、安らいだ顔つきの菩薩像でした。教戒師も、それが淳の表情と重なる、と言っていました」

三島の視線は個室の天井を見ていた。

「三島さん、その菩薩像をご覧になったのはいつ?」

美山が聞いてみた。

「ええ。面会に行った時と、刑が執行されたあと、家族の方が遺品として引き取られるとき、見かけました。妹さんでした」

美山は菩薩像の写真を見せた。

「ああ、たぶん、この仏像です。右腕が無いのが印象的ですね。そしてその苦痛をものともしない安らかな表情」

三島は柔和な笑顔を示した。

「ところで、事件のあったとき、森山家から盗まれたものに仏像とかはありませんでしたか?」

今度は恩田が聞いてみた。

「仏像? その菩薩像が森山家に在ったと? 淳が盗んだというのですか? いいえ。
記録ではなかったはずですが。

鑑識が捜査を終えた後、私たち刑事が入ったんです。その後森山氏にお金を貸した人から現金が無いとの証言が得られたうえ、淳の自白と、衣服についていた被害者の血痕で立件できましたから。
特に、その開業資金が孤児院設立の資金だったことから、警察関係者の怒りは大きかったのでしょう。現場での菩薩像とか仏像とかは全く記憶にないですね」

三島はどこか自信無げな口調になっていたが、気が付いたように恩田に聞いた。

恩田は黙りそうになった三島にそっと聞いてみた。

「三島さん、もしかして三島さんは、今でも淳が犯人ではないと思っているんじゃないですか。なぜ?」

「拘置所でのあの津久井の表情ですよ」

三島は恩田の問いかけに明確な否定も肯定もせずに続けた。

「あれは、人を殺せるような、殺したような人間の表情じゃない。安心と満足感にあふれた幸せそうな表情でした」

三島はきっぱりとした口調で自分の思いを言い切った。

「そうかもしれませんね」

恩田の言葉で三島の肩がうなだれて震えた。
そして再び顔を持ち上げたとき、三島の目には涙が浮かんでいた。

「そうなんです。私は、私は、津久井を犯人にしてしまった。握り飯が彼を惑わしたんです」

逮捕した時の淳は何かに怯える気の小さな獣の様で、痩せ細って五人を殺害できるほどの気力もなかった。

そして淳の拘置所の中での生活は、毎日心配することなく食べることが出来る。
びくびくと盗みをしなくてもよく、自ら命を絶たねばならないという恐怖もない。

ただ何れ訪れる死を待つだけでいい。

片や壁の外の餓鬼地獄は苦しみと悲しみと苦痛と恐怖に満ちていた。
三島はそう理由を述べた。

2Bの三人は三島夫妻を日暮里駅まで送ると、そこで恩田は行きたいところがあると言い山手線に乗った。

そして美山と順平は木下に会うために浅草へ向かった。

     *

隅田川に沿った公園の土手には、青いビニールシートで覆われた小さな小屋が立ち並んでいる。

人一人がやっと入れるテントのような小屋から、数人は入れそうな大きな小屋まで、数件が密集し、間隔を空けてはまた密集している。

住人達はその小さな箱の中で眠っているのか、姿を隠しているのか、人影は全くない。小屋の脇にはビールケースをひっくり返して板を乗せたテーブルや七輪が整然と置かれていて、住人たちの調和した生活が伺える。

三人は橋の袂の公園で落ち合うと、静かな川辺に出て落ち着ける場所を探しながら歩いた。

「ここら辺の人たちは、大雨が降ると、隅田川の水が増えて、家は流されちまうんでさ。それでもまた小屋が立ち並ぶ。流されても、失うものなどほとんどないんでしょう」

木下はその地域の説明を美山と順平にしながら歩く。

青い家々の途切れた護岸の上で、三人はコンクリートのベンチに腰かけた。

公園の広場の様だが、川の水の揺れる音が聞こえ、増水すればすぐにでも水浸しになってしまう広場である。
ただ、土手で舞い上がった風はそのすぐ上を通り過ぎて川面へ抜けるのか、太陽の光だけで温かく感じる。

「さきほど電話で美山さんに言われて、探してみたんです。ありました。これです」

木下は上着の内ポケットから一枚の写真を取り出した。

「おぼろげながら思い出しました。この、子供たちの集まった写真、その子供たちの右端、少し後ろの方に写っている二人の子供です」

色あせた写真には元気そうな子供たちが集まって並んで笑顔でカメラを見つめている。

その子供たちから少し外れるようにして、年長の男の子と中学生ぐらいの女の子のが、笑顔ではなく、無表情に思えるがなにか怯えるような心を見え隠れさせた目つきで小さく映っている。

集まった子供たちの服装は、今日ではみすぼらしくも見えるが、その二人の子供の着衣と比べると比較的裕福に思えてしまう。

当時まだ写真が珍しかったこともあり、木下の母親が保存して、後にアルバムに張り付けておいたということであった。

「時々、見かけました。森山さんちに出入りしているとき、たまに、裏庭の勝手口の方で、じっと中を伺っていたんです」

     *

木下は二人の子供の名前は覚えていなかった。

ただ写真の大きな男の子は、プライドがあったのか、たいていは木戸の外で待っていて、女の子が庭まで入って来ると、奥さんから菓子や握り飯なんかをもらっていたと言うことであった。

他の子供たちは、その二人を臭い臭いと言って避けていたが、それを言うと奥さんから叱られたという。
当時の森山家にはそうした子供たちが物乞いに来ることがあった。

『困ったことがあったら、また来なさい』

そう森山家の奥さんが、どこかの子供に言っていたのを聞いたことがあるという。

     *

美山は調書に残っていた淳の写真をバッグから取り出して、その写真と並べてみた。
木下もそれを見比べた。

「こ、この目。同じ人ですね」

木下だけでなく、美山も順平もそう思った。

「たぶん、無銭飲食で追われていた淳は、この森山家に逃げ込んだのね。この子たちにとっては、残された最後の助け」

美山の呟くような言葉に順平が続けた。

「逃げ込んだところ、そこは地獄のような惨状だった」

スズメが一羽、風に流されて川面を漂った。水上の風は強いのか必死に羽ばたいて岸に向かおうともがいていた。

「木下さん、報告書、読む自信あります?」

美山の問いかけに木下は俯いたが、隅田川に向かうと、広い快晴の空を見上げて、大きく深呼吸をして答えた。

「読まなきゃいけない気がします」

     *

その頃恩田は、あの『マンサク』というバーに向かっていた。
開店にはまだ早すぎるが、その準備にはあの老齢のバーテンダーが初めにやってくるだろうと予測していた。

バーの看板は店の壁と電柱に挟まれるように立てかけてあり、閉店後も電気を消すだけで動かさないようであった。
恩田は店の入り口がよく見渡せる通りを挟んだはす向かいの自動販売機の陰で、あのバーテンダー、鈴木良治(りょうじ)を待った。

冬の早い夕暮れの太陽が、赤い光を落とし始めるころ、黒いスーツ姿の男が現れた。恩田がゆっくりと近づくと、ちょうど店のドアのカギを開けたバーテンダーが恩田に気付いた。

「先日は、どうも」

「あ、先日の探偵さん」

「また、ちょっと、お話を伺いたくて」

「横山のことですか」

「ええ」

恩田は向こうから横山のことを言い出したことで、以前よりももっと詳しいことが聞けそうだと期待した。

鈴木は店に入ると営業時間よりも明るく電気を点け、カウンターの椅子を並べ直し、そしてカウンターに入ると、先日入れたボトルを取り出して水割りの用意をし始めた。

「まだ、開店前なんで、十分なおもてなしができませんが」

「いえ。こちらこそ、時間外に伺ってしまって」

鈴木は恩田に水割りを差し出すと、ちょっと待ってくれと合図して店内を簡単に片づけた。

三十分ほどで片づけを終え、再びカウンターの内側から恩田の前に立つと自分から話し始めた。。

「横山が首を吊ってから、ミーナは突然消えちゃいましてね」

「その後どこに行ったかご存知ですか」

「噂によれば、新宿、川崎、そのうちいつの間にか噂も聞かなくなって、私も忘れていました」

「横山って人のことは」

「あいつは、いつも怯えていた」

「怯えていた?」

「ええ。いつも何かに怯えたようにビクビクしていた」

「それは、元いた組織から?」

「さぁ。初めはGHQとか菩薩とか、訳のわかんねぇことをよく言っていて、とにかく怯えていましたね。首を括る数日前なんか、狂ったようだった」

     *

当時鈴木は横山が出入りする店でバーテンダーをやっていた。

同時に同棲していた田中秀子『エイコ・ママ』と同僚で親しかった美奈子もよく知っていた。

その関係から横山はよく鈴木のいる店に飲みに来ていた。
しかし横山は美奈子と結婚を約束したころから、おかしな言動が目立つようになったという。

酔っては、殺される、殺した、など震えながら呟き続けたという。
時には、美奈子が兄の思い出としてどこからか持ってきたあの菩薩像を呪うかのような言動もはいていたという。

『鬼のような菩薩が追いかけてくる』

そんなある日、突然、首を吊ったということであった。

     *

「そのお兄さんとは?」

恩田は知っていたがあえて聞いてみた。

「亡くなられたそうです」

鈴木の言葉から、淳の死刑のことは知らないらしかった。

「あの菩薩に追われていたと?」

「まぁ、根っから性悪なやつでしたからね。ミーナと一緒に暮らしていても、前は相当羽振りが良かったみたいですが、結局また酒、博打とね。羽振りのよかったのも、どっかで悪さして稼いだ金でしょう。次第にミーナ―の紐に成り下がりやがった」

「横山は、美奈子さんのお兄さんのことは、なにか話していませんでしたか」

「ミーナは、養女に出されていたそうで、そこが嫌だったのか、家族のことは一切話しませんでしたね。たぶん、横山もほとんど知らなかったんじゃないんですか。ただ、美奈子のお兄さんのことを怖がるようなことも言っていましたね。そう、お兄さんが菩薩になって枕元に立つ、とか」

恩田は横山が自殺した理由を確信した。

「ただ、あいつも不運な奴でね。兵隊に取られて、満州にいる間に小さな娘を結核で亡くして、帰れば帰ったで家は空襲で焼けていて、家族をすべて失って。GHQに追われ、菩薩に追われ……でも、あの頃はみんな何かの傷を持っていた」

鈴木の話はそれで途切れ、店の女の子たちがにぎやかに話をしながら入ってきた。

     *

次の日の朝、三人が2Bに揃うと桜庭から電話が入った。
菩薩像には秘密があったということで、美山と順平が警察庁に駆けつけた。

二人が控え室で待っていると桜庭が神妙な面持ちで段ボール箱を持って入ってきた。

そしてテーブルの上にそっと置いて話し始めた。

「この仏さん、いや菩薩様ですけど、江戸時代初期の作りらしいです。文化財とかそういった観点からはそれほど価値のあるものではないらしいです。これは木彫で木でできているのはすぐに解ると思うのですが、作成する際内刳りと言って、木の中心を刳り抜いて、乾燥によって収縮し割れるのを防ぐようになっているんだ。この菩薩像と座っている台座、実は作成後につけられたようで、体と台座にそれぞれ空洞ができているんだ。その中から、こんなものが出てきました」

と言ってプラスチックに挟まれた一枚の古い紙片を差し出した。

「これも紙や墨の状態から、菩薩像が作られたのと同時期に作成されたものらしいです」

美山はプラスチックの袋を受け取り、丹念に眺め順平に渡した。
それを見ながら桜庭が続ける。

「そこに書かれているのは、般若心経。それが書かれている紙片は江戸時代初期の物です。ただその紙片、折りたたんでありましたが、その中から、比較的新しい一本の短い毛髪が出てきました。江戸時代から比べるとですね、比較的新しい。津久井淳のDNAと照合できれば、たぶん彼のものかもしれませんね。美奈子さんの物と大分近い。

他は像の表面から出てきた指紋はありましたが全く新しいもので、佐藤さんや木下さんのものでした」

美山はプラスチックの中で広げられた手紙を読み始めえた。

「たしか、三島さんの話によると、淳は拘置所で般若心経を写していたそうですね」

「話は変わりますが、これから、2Bはどうなるんでしょうね」

と桜庭は話題を変えると、やっと美山が口を開いた。

「さぁ。どうなるんでしょう」

順平は意味が解らなく美山と桜庭の顔を交互に見ているだけだった。

     *

その後も2Bに帰り着くまで、口数の少なかった美山は、恩田への報告で再び口を開いた。

「恩田さん、以前桜庭さんが言っていた言葉を思い出したんです」

「どんな?」

「この菩薩像『見る人によっては恐ろしさや嫌悪も感じるんじゃないか』って言っていたことです。この菩薩像を見る多くの人は、これに優しさや力強さを感じるけど、三峰さんのような悪いことをしてきた人には、気味悪くも感じる」

「そうかもしれないな。横山も、同じだったんだろう」

昭和23年12月、横山は森山家に押し入った。
家族を殺害し、現金を奪い逃走。
その直後、無銭飲食で追われていた津久井淳が逃げ込んできて、その惨状を目の当りにした。助けようと家族らに触れたところで、包丁や自分の衣服に血痕が付着。淳はもはや逃げ場を失い、すがるようにしてよく拝んでいた菩薩像を抱きかかえて、自分たちの塒へ帰った。
その数日後、逮捕された。

淳にとって留置場や拘置所の生活は、それまでの生活と比べれば、食べることを心配しなくていい豊かな生活だった。
もし社会に戻れば、過酷な生活が待っている。
妹の美奈子も横山という男に頼って生きることができるようになった。
すべてを失い、何もない淳にとっては、望むものは何もなかった。

そうした安心感が、死をも受け入れられる虚無の力となったのであろう。

横山は自分の犯した罪を被ったのが、まさに一緒に暮らしていた美奈子の兄だったのである。

「横山は美奈子と結婚する際、美奈子の本名を知り、淳の遺品として持ち帰った菩薩像を見て、美奈子が自分の代わりに冤罪で死刑になった淳の妹だとわかり、罪の意識からだろうか、追われる恐怖感からだろうか、自ら命を絶った。

これが横山の自殺の原因だろう。
横山はこの菩薩像に不気味さや恐怖感を覚えたのだろう。
心にやましいことがある者にとっては、心を見透かされるようで怖かったのだろう。
ただ奴は菩薩に殺されたんじゃない。自分で自分を追い込んだんだ」

恩田は美山と順平、二人の顔を見た。
そして順平は持ち帰った菩薩像を風呂敷に包みながら言った。

「これ、木下さんに返さなきゃ。でも、美奈子がそれを知っていたかどうか、それは、解らないんですよね。ただ、兄の淳さんが幸せに死んでいったと言うことは解っていた。淳が死んだ後、横山が死に、同じ墓に淳と横山の遺骨を納めた。美奈子は横山が真犯人だとは知らずに。知らない方が良かったのかもしれない」

「あ、じゃぁ、これから報告書を作成するから、それまで待ってくれ。報告書と菩薩像、一緒に持って行ってやろう」

     *

2Bでは恩田が二日ほどをかけて報告書を作成し、その間美山と順平は集めた書類や写真、テープなどの資料を整理していた。

紙を捲る音やパソコンのキーを打つ無機質な音だけの静かな時間が長く続いていた。

そんな中、順平が突然思い出したように言った。

「そういえば、この前桜庭さんが言っていた……」

恩田と美山は同時に顔を上げ順平を見た。

「これから2Bって、どうにかなるんですか?」

と順平は恩田と美山を交互に見返した。
その質問を聞いた美山は恩田を見た。

「ああ、これが、この津久井淳ケースが最後の仕事になる。2Bは解散だ」

「ええ!」

「やっぱり」

美山は薄々感ずいていたらしい。

「僕は、どうなるんですか?」

「財政難のなか、仕訳とかいろいろあって太刀打ちできなくてね」 

恩田はパソコンを打つ手を休めて言った。

「それとも、今までの報告書を全部公開して、実績を説明しろというのか?」

恩田を見守る二人は黙ってしまった。
2Bのドアの外からエレベーターの止まる音が聞こえてきた。

「あ、珍しいわね。誰か来るのかしら?」

冷たい倉庫の中を歩く靴音が次第に大きく聞こえてきて、とうとう2Bのドアをたたいた。

「開いてるよ」

恩田が答えると、ドアが勢いよく開いた。

「あら、赤岩さん。ここまで来るなんて珍しいわね」

美山は嬉しそうに、事務所の隅にあった折りたたみ椅子を差し出して招き入れた。

「ああ、聞いたよ、鬼塚君と桜庭君に。津久井淳ケースの報告書が早く欲しくてね」

と言って美山の差し出した折りたたみ椅子を恩田の机の傍に置いて、逆さに腰かけて、背もたれに組んだ腕を置いた。

「僕ね、こいつを首相と法務大臣に突きつけてやろうと思ってね」

「あら、そんなことしたら、政界だけじゃなくマスコミから世間まで蜂の巣を突いたような騒ぎになるわ」

「だからだよ。ふふふ」

「今回は、冤罪事件ですから」

順平がそっと呟いた。
すると恩田が順平に答えるかのように話し始めた。

「順平、人が死亡判定されるときの条件って、知っているか? 今はほとんどの人が病院で死ぬ。その場合機械で心拍や脳波を図って死亡を確認するが、しかし以前は多くの場合自宅で亡くなることが多かった。町の医者がやってきて患者を診る時、何を基準に死亡判定するかだ」

「それは、そう、脈が無くなり、心臓が止まり……」

言葉に詰まった順平の後を続けるように恩田が話し続ける。

「まず一つは瞳孔の無反応。そして自然呼吸の停止。そして脈拍の停止だ。そして二十四時間置く」

「そうですね」

「じゃ、なぜ二十四時間置くんだ?」

「そりゃぁ、生き返るかも知れないですから!」

と順平が自信を持って言うとすぐ隣にいた美山が大声で笑い出した。

「そんな! 生き返るだなんてゾンビみたいな話、あってたまるもんですか!」

順平はまた頓珍漢なことを言ってしまったと悔しそうな顔をした。
恩田も笑いながら続けた。

「最初の三つの条件が二十四時間続くことを条件にしているんだ。なぜなら、医者にも誤診があるかも知れないからな。生き返るんじゃない。それは誤診だったということだ」

「そう。医者だって人間だもの。間違いを犯すことはあるわ。法律は人間が作る。そして人間に作られた法律は、人間が間違いを犯すことを前提にしている。もし今の道徳家たちの言うように、人の命を預かる医者にミスは許されない、というのなら……神様に診てもらうしかないじゃない! ゴット・ハンドなんてお笑いよ」

三人は黙った。それまで立っていた美山も椅子に座り、机に向かった。

「美山さん、恩田さん。始めに淳を聴取した三島刑事も間違っていなかった。いや、淳を可愛そうに思ったのではなく、規則通りに握り飯を与えたことが過ちに繋がった。そういうことでしょうか」

「裁判官も、淳が全てを認めていると言うことで、それを信じた。そして判決を下した。ただ淳の語ることと警察、検察の主張が一致することで間違いはないと思った」

「じゃぁ、悪いのは津久井淳? そんなぁ!」

「善悪って、だれが決めるの? 淳は、死ぬことを望んだのよ。そして死ぬまで、何の心配も無く食べることが出来る刑務所の生活を望んだ。でも最後の最後まで生きる肉体が煩わしい。生きている限りお腹は空き食べなければ生きてゆけない。食べることが出来ず餓鬼に苦しむ体が煩わしかった」

1947年、昭和22年、児童福祉法が成立。

1950年、昭和25年、生活保護法が成立。
この年津久井淳の死刑が執行されている。

生活保護法とは、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを定めた法律である。

ただそれが成立、施行されても、国の隅々の困窮する全ての人に行き着くまでには時間がかかる。

「淳は真犯人が誰かは知らず、美奈子も知らない。ただ横山だけがそれを知って、同じ墓の中。横山は生きていれば辛いでしょうね」

「でも、死んじゃったんだから。死後も辛い思いをし続けるなんて死ぬ意味ないじゃない。真犯人を知ろうと知らなかろうと、この世の人の関心事なだけよ。淳はそんなことどうでもよかった。成仏できないとかそんなことは、生きている人の考えることよ」

事務所の隅のプリンターがうなり始めると、恩田が立ち上がって出てくる紙を一枚一枚、受け取る。そしてその一部をホチキスで止めると、赤岩に差し出した。

「赤岩さん。これでいいですか。略式ですが。本式は三冊。依頼人と2B保管用。そしてもう一枚は、昭和天皇のご霊前に」

「ああ、それで十分だよ」

「それから、順平。これを装丁してくれ。明日、木下のところと、黒田さんのところへ、三人で行こう」

「はい」

「2B、最後の仕事だ」

     *

報告書を持って皇居の吹上大宮御所を訪れると例によって黒田が応対した。その謹みは報告書に記載されている人たちへの気持ちである。

そして報告書を別室に納めると、応対室に戻ってきて三人の前に座った。

「恩田さん、美山さん、梅沢さん。今後いかになさるか、もしご希望があれば出来るだけ適えられるようにいたしますが」

すると恩田は今までに無い晴れやかな表情で答える。

「お気遣いありがとうございます。私は、田舎に帰って居酒屋でもやろうと思っております。実は家内も乗り気なんです」

「そうですか。美山さんは?」

黒田は笑顔で恩田から美山に視線を投げた。

「私は、結婚しようと思っております」

「え!」

恩田と順平が同時に小さな声で驚き横の美山を見た。

「以前から結婚を申し込まれていまして……」

「もしかして…」

「クマさん」

美山は舌を出して答えた。

「そうですか。球磨川ですね。おめでとうございます。そして梅沢さん。短かったですが、いかがでしょうか」

「僕は……私は、以前いた部署に戻していただけないでしょうか」

「ほんとにそれでよろしいのですか」

「ええ。以前は楽しくないし、変化も何も無い部署で、嫌いと言うより諦めて働いていたんです」

順平は自信満々で話し始めた。

「でも、悲しいとか辛いとか、そんなのは、やっぱり嫌ですけど、楽しいとかやりがいとかって、贅沢にも感じるし、わがままな気がするんです。喜怒哀楽の感情って、どうしても顔や体に出てしまいますけど、とっても不安定で怖いんです。毎日毎日、同じことが繰り返される、それが一番幸せなんじゃないかって、今、思うんです。幸せって、もしかしたら、つまらないものなんじゃないかなって思うんです。でもそれは、とてつもなく奇跡に近い幸せのようで。以前のように、毎日同じ毎日を過ごしたいんです」

黒田は笑顔で頷いた。

吹上大宮御所を取り巻く森の木々は葉を落とし、緩い太陽の光が地上に降り注いていた。

                        

                 インペリアル・ディテクティブ 了

#創作大賞2023

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