『照星(しょうせい)』 5

このデュック兵長がクリング一等兵に対して、剛とベルーを引き合いに出したことが、ある事件を引き起こした。

オストリア人のクリングは、自分より優秀で上に立つ者がギリス人のベルーなら許せるのだが東洋人の剛に負けていることが気に食わなかった。それでも対抗意識を燃やして、射撃やジョギング、八百メートル走、テストの点などで争ってくるのならいいのだが、彼は決してそのリングには上がってこなかった。
負けた場合を考えると、恥ずかしく惨めになるのが怖くて、もともと戦いは挑まない。

「おい、シノア」

シノアとはフランス語でCHINOI。中国人という意味であるが、東洋人全般に対して指す言葉としても使われる。

すなわち、相手の人格を認めず、名前で呼ばずにわざとこの言葉を使って呼ぶ場合、差別意識を含んでいる。
ただ、それを指摘された場合でも、無知を装って、アジアの国のことは知らなかった、と言えばそれで放免されるのである。

そうやってヨーロッパでも思想芸術の中心になるフランスでさえ、時には東洋人に対する差別用語として便利に使われている。

「おい、シノア」

それまでは、東洋人なんてと馬鹿にし、話もろくにしなかったのに、それからは何かにつけて剛のことを、あからさまにそう呼ぶようになった。

数多くの国、地域から、色々な人種が、さまざまな文化の中で生まれ育った人たちが集まるところで、そういったあからさまな差別を目の当たりにするのは、たとえ自分の中にそんな感情があったとしても不快になってくる。
同じ苦しい訓練の時間を共有する人たちの間には、次第に仲間意識が芽生えてくるからだ。

その中で自分の親しい仲間が、その競争からかけ離れたところで謂れのない差別されているならなお更不快になる。

「おい、シノア」

 そう呼ばれるたびに、剛は諦めて無視を決め込むが執拗に呼びかけてきた。

「おい、クリング。ヤジマと呼べ。こいつは、ヤジマ・ツヨシだ」

ベルーも呆れてクリングに食って掛かった。その時はそれで引き下がるが、数時間後には同じように始める。そしてとうと剛はあからさまに不快な表情を浮かべて、

「おい、あのなぁ、俺は…」

と剛がクリングに向き直ったときだった、

「クリング、ここは外人部隊だ。人種民族差別は裏切り行為だぞ」

ブルゴーニュ大尉がクリングの背後からその肩を軽くたたいたのだった。

先進国や白人社会に多い人種差別、民族差別といったものは、その国や社会に偶然生まれたと言うこと以外は、本当はあるはずの自らの力や才能を見出せない人たちの格好の拠り所なのだ。


そして後三日で訓練も終ろうとする頃に、最終試験が始まった。

夕方に二百メートルの定距離射撃で最後の照準合わせを行い、その後トラックで遠くまで運ばれ、そこから射撃場に戻るように夜間の三十キロ行軍を行う。
十キロの背嚢と長さ一メートル重さ五キロの銃を背負い、そして軍靴と厚くて重い戦闘服を着て、密林の中に通った一筋の暗い道を歩くのだ。

その道は昔、重罪を犯して流されてきた囚人たちが切り開いた道なので、長い年月を経た今では荒れ果てて、舗装の跡は残っていても、それは砕けて、裂けて、所々大きな穴が空いている。

目の前を蛍が飛び交う以外明かりは全くなくて、時々足を穴に取られて躓きそうになる。道から逸れると、たいていは沼に草の生えた湿地と人を拒む密林で、その合間に、仏領ギアナがカイエンヌ・ペッパーの一大産地であったことを窺わせるような唐辛子畑の跡が残っていたり、パイナップルが野生化して生えていたり、背の高いサトウキビが生えていたりする。

笛を吹くように蛙が鳴き続け、夜が更けて気温が一気に下がると突然静かになって、足音だけが響く。

汗で濡れ切った戦闘服は小休止で歩みを止めると一気に冷え、火照った体を冷やして体力を消耗させる。
背嚢が肩に食い込み首筋が硬くなる。
肩から提げる銃の銃床が腰に擦れ、軍靴の中の足の裏の皮がはがれ始めて、足の甲では肉刺が潰れる。

そうして演習場の八キロ手前のところまでたどり着くと、草むらを探して入り込み、背嚢を枕に銃を抱いて仮眠を取った。

 早暁、赤く染まる空を目指して訓練兵が並んだ。湿地の上をゆっくりと靄が流れる。額は朝露でジットリと濡れていた。当番で歩哨に立ったものはほとんど眠っていないかもしれない。

「ベルー、ヤジマ、ちょっと来い」

珍しくルイン伍長が二人だけを呼んだ。
生真面目な伍長は、同じ小隊の同じ分隊の仲間だから、贔屓目で教えていると思われないように、三人だけになって話をすることは控えていたのだった。

「伍長」

二人がトラックの横に立っている伍長のところまで行くと、小さめの金属製の空の弾薬ケースを二人に差し出した。

「これは重さがちょうど二キロある。お前たちは、これを背嚢の中に入れるンだ」

二人は同時に背嚢を下ろすと、ベルーは横にいる剛を振り返り、そうすると剛もベルーを見ていた。
目が合うとお互いの顔に愉快な笑顔があふれた。そして金属のケースを詰め込むと、スタート地点に並んだのだった。

「おい、ツヨシ」

ベルーは剛の名前を呼んだ。

「なに?」

「もう、お前が先でも俺が先でも、どっちでもいいぜ。第三小隊が、一番と二番になろう」

「ああ、そうだね。でもジェリー、手は抜くなよ」

「ふん!」

ベルーは鼻で笑い返した。

二人はすでに二キロの重量オーバーのハンディは考えていなかった。むしろそれが誇りにさえ思えてくるのだった。

そして、笛が鳴った。朝靄の中を演習場に向かって走り出した。朝露に塗れてベトベトする額を吹き出てくる汗が洗い流す。
走る体の揺れで背嚢が上下左右に大きく揺れて昨夜擦れた背中をさらに擦る。背嚢も銃も体を地面に沈めようとするかのように肩を押しつぶす。

みんな呼吸を乱さないようにそれぞれのリズムの数を唱えながら走る。たかが約四十五分の辛抱、と思いながらその辛さをこらえて走る。
辛さを早く終らせようと、もっと早く走って、ますます息が苦しくなる。背中の擦れも足の肉刺も、痛さは過ぎて痺れに変わる。

それでも、負けたくない奴がいる。目の前のそいつをいつ追い抜こうかと、虎視眈々と見据えて、前の奴の背中を追う。
第三小隊のその中でどちらが一番でも二番でもいいのなら、一番は自分がなろう、と思う。常に後ろのベルーに気を払い、最後の五十メートルでは後続を引き離してデッドヒートの走りを競った。

そうして太陽がはっきりと木々の上に姿を現す頃には、あの密林の中に切り開かれた演習場の射撃台にたどり着いたのだった。

ベルーは走り終えると背嚢を地面に投げるように降し、振り返るとすでに剛もゴールしていた。

剛は最後のゴール手前でベルーに出し抜かれ、二着でゴールしたのだった。

十分な成績で八千メートルを走り終えたが、しかし、剛は成績よりも、ベルーに抜かれたことが悔しかった。

「ツヨシ、お前、次で点を稼いでおかないとナ。それとも筆記試験は自信あるのか」

「ヘヘ…ジェリー、お前もナ。計算問題…本試験はカンニングできないぞ」

そうやって常に牽制し合う。

十分な休憩時間は与えられずすぐに射撃の試験が始まった。息が整わず時折気管支を鳴らしながら銃の用意をはじめた。

油を染み込ませた縒った紐を銃身の中に通して油を塗りスコープを装填する。そして全員に二十四発の弾が配られた。
それを二つの弾倉に十発ずつ詰め、残りの三発はポケットに入れる。残りの一発は銃身の予熱用だ。

最初の十発は距離二百メートルの円形の標的に撃ち込むのだが、今までとは違って照準合わせではなく、的の中心を十点として、減点して広がる円の中に撃ち込まなければならない。

次の五発は三百メートル先の人型の影の中へ、もう五発は五百メートル先の人型の影の中へ撃ち込む。
それぞれの人型の絵の中に銃弾の穴が開けば得点になる。
それを持ち時間の五分で撃ちきらねばならない。名前が呼ばれて五名ずつ射撃台に登り、標的に向かって一列に並んだ。剛もベルーの右隣で気を付けの姿勢で立った。

そして号令が掛かると、剛たちの五人の列はうつ伏せになり銃を構えた。予熱用の弾を一発撃ち放ち、次の号令を待った。

                      つづく

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