「翔べ! 鉄平」  5

 龍宮は三日ほどかけて二十人の兵隊を集めたのである。その集めた二十人の兵卒が二部屋に纏められた。
 鉄平はまだ新兵訓練を終えたばかりで古参の兵隊たちに囲まれて恐縮してしまっていたが、静かなのは鉄平だけではなかった。どうして突然別の部屋に移され、何も説明が無いまま部屋に留め置かれるのか不思議でならない兵隊たちは不安から言葉が少なくなっていた。

「おい、烏山四等兵。部屋を掃除しろ」
 熊沢は無表情な言葉で命令をだす。
「おい、烏山四等兵。便所の掃除をしろ」
 そう言って鉄平に雑用を命じるが、終わると業とらしい検査はせず、言いがかりもつけない。そして体格の大きな熊沢がみなと同じに不安を隠して黙っていると、それが滑稽に見えてくる。鉄平は熊沢が体罰を加えない古参兵と解るといろいろと質問をしてみた。

「この小隊は、どんな兵種なンですか?」
「知らん」
 熊沢は素っ気無く答えた。

 食堂で熊沢が席に着くと鉄平がすぐ目の前にいる。兵舎に戻ってベッドに座ると、鉄平が伺っている。

 ある日食堂で熊沢の方から鉄平に話しかけてきた。
「おい、お前、何で俺のことばかり見ている。変なこと考えているのではないか」
 と大柄な体格をますます大きく見せるように腕を組んで聞いた。
「いやぁ、新兵訓練が終わったばかりでまだ慣れなくて。俺たち、これからどうなるンでしょうか」
 と鉄平は情けなさそうな照れ笑いで答えた。すると熊沢の横に座っていた犬飼が割って入ってきた。
「なぁに、これからだ」

 熊沢と鉄平が同時に犬飼に疑問の視線を向けた。犬飼は済まして飯を食いながら、呑み込むとまた話し始めた。
「これから、始まるンじゃねぇのか」
 二人は犬飼を見守った。
「俺たちが、理由を知らされることなく突然部隊から引き離されて、ここに集められたってことは……わかるかい?」
 熊沢は食べる箸を止めて考え込んだ。
「お前は、知っているのか?」
「知らん。でも、何か新しいことが始まりそうじゃ」
「そういえば……」

 鉄平は先輩たちの会話に遠慮をしながらそっと呟くように話してみた。熊沢も犬飼も鉄平を探るように見つめた。

「初めに言われたな。空を飛びたいかね、って聞かれて、飛行機は操縦できない、って答えたら、かまわん、って言われた」
 今度は熊沢と犬飼が顔を見合わせた。
「ここは、海軍だぞ。空を飛ぶのは艦上攻撃機とかだな。操縦できなくてもいいってことだろ。そのまま突っ込むとか?」
「まさか。さしずめ、飛び魚みたいになれとでも言うのかな」

 それからは熊沢と犬飼の自分たちの置かれた状況を考える会話が続き、鉄平はそれに聞き耳を立てた。そしてまだ何も命令が下らないまま数日が過ぎ、食堂で、便所で、兵舎の隅で、何かというとその話題がもちあがり、それを取り巻く人数も増えていった。

 そうして間もなく、全員が兵舎前に集められた。一等兵の熊沢が指揮をとって先導し兵隊たちをその後に続かせる。兵隊たちはひそひそと何かを探るように話しながらついていく。

「何が始まるンだ」
 熊沢の後ろを歩く犬飼がそっと背後から話しかけた。
「知らん。呼ばれただけだ」
 熊沢は淡々と答えた。

 一列になってついて行くと、基地の隅の格納庫に連れて行かれたのである。戦闘機が二機ほど格納できるほどの大きさであったが飛行機は置かれていなかった。ただ白衣を着た士官や下士官、飛行服を着た士官、私服を着た人たちがそこで待っていた。白い布の掛けられた黒板の前に机が置かれ、その前に椅子が人数分並べられている。

 全員が席に着くと先日彼らを捕まえた少尉が緊張した面持ちで机の前に進み出て来た。一等兵の熊沢が号令を掛けた。

「小隊! 起立!」
 少尉は小隊を座らせた。
「諸君!」
 声が裏返り、髭が震えた。

「諸君! 君たちは、これから、わが大日本帝国海軍において、もっとも機動性に富んだ部隊編成に協力してもらうことになった! そのための訓練をこれから受けてもらうことになる。またこのことは極秘の計画であるため、まだ内容は言えない。極秘である。ただし!」

 龍宮は言葉を切って、並ぶ兵隊たち一人ひとりの目を見ていく。

「日本男児として、誇りを持って、戦線に飛び込む勇気の!」
 龍宮は再び言葉を切り兵隊たちを見回し、そして続ける。
「勇気のない者は、今、この場を去れ!」

 龍宮は最後の言葉を、右手の拳を挙げながら歯をかみ締め髭を尖らせて言った。
 居並ぶ兵隊たちは視界の隅で、手を挙げたり立ち去る動きをする影を探した。しかし誰も全く動かない、動けない。
 全員が一斉に立つなどの申し合わせはなく、抜け駆けも出来ない。どっちに抜け駆けるか迷う。迷って全員同じ態度を貫き通す。希望者を募るにしても、このように言われては立ち去る勇気が湧かない。

「よし、全員志願だな」
 兵隊たちの眉が引き攣った。いわゆる盲志願である。
「今回、君たちに集まってもらったのは、我が海軍が研究を進めることになった、第一〇〇一実験に協力して貰うためである」

 少尉の髭が伸びたように感じる。少尉は咳払いをして続ける。
「この第一〇〇一実験とは……」

 少尉は振り返って壁に設えられ白いシーツを掛けられた黒板に向かい、そのシーツを引き剥がした。そこには大きく拡大された写真が数枚貼られていた。

「落下傘を使った連続降下方法を研究し、わが国初の空挺部隊を創設することである!」

 座っていた兵隊たちは身を乗り出してその写真を覗きこみ、そして隣同士顔を見合わせた。

「落下傘?」

 少尉は指揮棒を取り一つ一つの写真を説明していく。大きな機体の飛行機の後部から空に染みのように点々と落下傘を開いて降下する写真、兵士が風に吹かれ大きく膨らんだ落下傘を引っ張っている写真、ふわふわと風に流される大きな布切れの下で地上に崩れ落ちるように体を丸めている兵士の写真などを指して、その状況を説明するのである。

 鉄平はまたも想像してしまった。鉄平の『隼』はプロペラが止まり高度を下げる。啓二の『零』は笑って飛び去っていく。

「この落下傘を使い、敵の後方へ降下し挟み撃ちにする。すでに同盟国のドイツもデンマークでの作戦で効果を挙げている」

 少尉は落下傘という言葉を使っているが、写真だけでは兵隊たちに実際のイメージが沸いてこない。犬飼が手を挙げて聞いてみた。
「少尉殿、落下傘っていったい、どんなものですか? 羽みたいなもの?」
 彼らにとって落下傘と言われても全く想像すらできない。

「それは、藤倉ふじくら博士から説明してもらう」

 少尉が下がり、白衣を着た年配の男が黒板の前に立つと、おもむろに机の上に這い上がり立ち上がった。鉄平はその博士の鼻が異様に大きいのでその顔から天狗を想像してしまった。博士は助手から小さな人形を受け取ると、それを大きく頭上に掲げてから落とした。

 ドン!

「高いところから落ちるとき、普通だとこうして落ちてしまう。ところが」
 藤倉博士は、今度はもう一つの人形を取り出して、手を高く掲げ、何か紙のようなものを広げると人形と共に落とした。

 ゴトン!

「見たか? 見たか? 紙の傘を着けて落とした人形の方が落ちるまでの時間が遅かったじゃろ?」

 オオ……

 鉄平はこうもり傘で体が浮いた経験を思い出し、その研究と同じことを軍隊がやろうとしていることに驚いた。兵隊たちの驚きとざわめきに藤倉博士は研究者らしい満足げな笑顔を作っている。彼は海軍で長年飛行機の研究を重ねてきた将校であった。助手が落ちた人形を拾って博士に渡した。すると今度はその人形についている白い紙を広げて見せた。それはキノコの傘のような形をしていて、その傘の裾から糸が何本も垂れ下がり、逆円錐形の形になって人形の両肩に集まり結ばれているのである。博士は机から飛び降りた。

 ドン!

「もっと大きな傘があれば、もっと滞空時間は長くなる」
 そう言いながら兵隊たちを振り向き話し続ける。

「わしは長年、飛行機の研究をしてきたのじゃが、おい君」
 と言って突然鉄平を指差した。

「はい! 烏山鉄平四等兵です」

「なぜ飛行機が空を飛ぶかわかるかね」

 鉄平はもとより誰もわからない。兵隊たちは顔を見合わせる。

「羽があって、プロペラがあって……」
 鉄平は空を見つめて数えるように言った。

「そうじゃ!」

 博士は楽しそうに声を震わせながら、黒板から写真を取り払うと白墨を握った。そして横向きの大きな雫が落ちるときのような、飛行機の翼の断面図を大きく描いた。

「空気は粘性という性質を持っておる。粘性とは搗き立ての餅に見られるような粘り気じゃ」
 鉄平は学校の勉強は好きではなかったが、初めて熱心に黒板に見入って話を聞いている自分に気が付いた。熊沢も犬飼も他の者も腕を組んで真剣に聞いている。

「この粘性は、じゃな、翼が空気を切り、その切れた点が上下に別れ、そして翼の上方と下方を流れて後方で合流する。その合流するとき、切れたときと同じ点で合流する性質じゃ。翼の断面図を見てみろ」

 博士は白墨で空気の流れを羽の上下に描く。下の線は直線で、羽の上を行く線は羽に沿って大きく上方を迂回している。

「この上下に分かれた空気が、後方で同じ点で合流しようとする場合、上を通る空気は早く流れねばならん。すると空気は薄くなる。薄くなって真空に近い状態になると、その薄い空気の層は……下の羽を引き揚げる。だから翼は中に浮くのじゃ」

 オオ!

 鉄平はその講義が面白くつい真剣になって手を挙げてしまった。
「藤倉博士!」
「なんじゃ」
「プロペラも竹とんぼと同じですね。翼と同じ形をしているンじゃないですか」「そうじゃ! プロペラは横を向いて風を切り空気を後方へ送ると同時に、粘性によって前方に引っ張られる。それが推進力になり、風を翼に送り込む。竹とんぼは回転し始めは上昇するが、すぐに回転させる力が無くなるから落ちてしまう」

 オオ!

「では! この落下傘に応用してみよう」

 博士は翼の図を消すと、今度はお椀を伏せたような弧を描いて見せた。そして振り向きざま鉄平を指差した。
「おい、若いの。空気はどう流れる?」

 鉄平は右手を上から下にゆっくり下ろしながら考え、自信無げに答えた。
「下から?」

「そうじゃ。落ちている物を止めて考えれば、空気は下からやってくる」

 博士は弧の下のほうから線を引き上げ、弧の中で線を回転させた後、弧の端から弧に沿って上に引き揚げる。弧の左右に同じ空気の流れの線が対照に引かれた。

「するとだな、落下傘は空気を集め落下にブレーキを掛ける。そして蓄えられた空気は外に飛び出し、傘の上方で再びくっつこうとする。傘は下に向かう。じゃから、傘の真上に空気の薄い、真空にちかい層ができる。傘は落ちながらもさらに上に引っ張られるのじゃ」

 オオ!

 鉄平は自分の研究した竹とんぼや傘の経験を重ね合わせて考えると、心がワクワクして躍り始めた。

「で、博士、その落下傘は?」
 誰かが質問した。
「ヒィェへへへ! 今開発中じゃ」

 その奇妙な笑い声に兵隊たちが静まった。

――おいらと同じことを考えているひとだ! 大空が呼んでいる!

 鉄平は博士の不気味に笑う顔が凛々しく見え、嬉しさが込み上げてきた。すると熊沢が手を挙げた。

「熊沢桂一一等兵であります。さきほど、飛行機から落ちてくる写真がありましたが、いったい高さはどれ位なのでしょうか」

 一瞬の静けさが流れた。

「多分、五百メートルから七百メートル。ヒィェへへへ!」

 エエ!

「そんな! 屋根から飛び降りるのと訳が違いますよ」
 犬飼が驚いて言った。

「だから、落下傘をつけて飛び降りるンじゃ。ヒィェへへへ」
 座って話を聞いていた兵隊たちだけでなく、それを見守る龍宮たちも俯いていた。体格の大きい熊沢がまたそっと手を上げた。

「あのぉ、多分、この中で、自分が一番、体重が重いと思うのですが」

「落ちる速度はみな同じじゃ。自由落下の場合、物質の質量には影響されない。傘を着けない真空の中でだがな。わしの計算によると、多分、二階から飛び降りるのと同じぐらいの衝撃ですむはずじゃ」

 そこまで話し終えると先ほどの龍宮少尉が出てきた。

「そこでだ。これから君たちには着地の衝撃に耐えられるよう、訓練をつんでもらいたい! 着地して骨折して、その後、戦えませんじゃ意味がないからな! もちろん、この私も参加する」

 講義が終わると格納庫は厳重に閉じられた。

 その後食堂に集まった小隊は極秘と言う言葉を守って会話が少なくなっていた。しかし極秘だからと言う理由だけではなく、むしろ不安と好奇心の入り混じった複雑な気持ちのほうが強く、迷っていたのである。ただ鉄平は踊り出しそうなほど嬉しく、その日の便所掃除は鼻歌交じりであった。

                         つづく

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